コピー禁止

2016/03/18

「真田丸」第10回感想 「テレビ美術の妙手」

高解像度との闘い

テレビジョンの技術革新はめざましく、ついこないだ高解像度のデジタル放送が始まったと思ったら、今度は4Kだの8Kだのと、さらなる規格が登場してきて、いつまでにどこまで突き進むものやら見当もつきません。きれいな画面を茶の間で享受できるのは結構なことですが、私たちはその革命によって精細な映像を得たと同時に、何か失った物があるのかもしれません。
例えば、公共放送・民放に限らず、ドラマのセリフの音声が、話し手や映っている環境に関係なく一本調子に聞こえると感じるのはおじさんだけでしょうか。デジタル化と同時に画面が横に広がったことで、マイクの位置取りが制約されて、軒並み「天井録り」(人物の頭上から録音する)になってしまったせいではないか、と疑っています。
NHK放送文化研究所の「文研ブログ」に、メイクや大道具といった裏方さん方に聞き取りを行ったメディア史インタビュー(廣田鏡子研究員)が掲載されています。カラーテレビの登場など映像技術の革新の度に、彼らが創意工夫を重ねてきた新技術との闘いの跡が読み取れます。
ドラマを見るとき、あなたの視線はまずどこに行きますか。主人公がイケメンかどうかが重要だったりもするわけですが、ちょっと目をずらしてみてください。彼が着ている服、演技をする部屋、置いてあるテーブル、その上の料理、壁の絵画、時代劇なら侍のかつらにその時代のメイク。そればかりか、窓の外を吹く風、雨に打たれる樹木、降り積もる雪にいたるまで、ぜーんぶ「テレビ美術」なんですね。言ってみれば、目に見える(素っ裸の)人間以外のものすべて。(同ブログより引用おしまい)
なるほど、これほどに大切なテレビ美術。今日は、直接テレビ画面の表側に登場しないバックシートに座ってドラマを支える人たちの存在を考慮に入れて、「真田丸」第10回「妙手」について語ってみます。

キャラはどこへ行った?

今回は北条・徳川間で将棋の駒のごとく扱われることに対抗する真田家の知略が描かれます。上杉景勝を巻き込んでの沼田城防衛作戦。これまで小人物でしかなかった主人公信繁が、いよいよその外交能力を発揮して、北条軍を退却させるお話ですが、策士に成長するまでの過程が描かれてこなかったため、唐突感が否めません。序盤に大活躍した真田昌幸は、もはやただの碁打ちおじさん。狂言回しですらない。軍略を次男坊に丸投げして勝手な外交をやらせる無謀は、築き上げてきた昌幸像の破壊につながりかねません。
徳川家康は健忘症でも患っているのでしょうか。三方ケ原で苦杯をなめた“武藤喜兵衛(後の昌幸)”の記憶も、戦わずして北条軍を自分に向かわせた手腕に「恐ろしい男」と評したエピソードもなかったかのように、今回は昌幸を雑魚扱いです。草刈正雄さんの優遇期間は終わったと言わんばかりの扱い。視聴者は、キャラクターを描き込む必要がない戦国国盗りコンピューターゲームに赤の他人が挑戦する様子を、はたから見ているかのようです。脚本の三谷幸喜さんの興味が、人物造形からストーリーテリングに移ってしまったのでしょうか。
未婚女性を懐妊させたら責任を取って結婚するのは常識だと思いますが、妹へのデキ婚プロポーズに大喜びする地侍にも違和感バリバリ。女グセの悪い真田信繁が、あちこちではらませた中から妹を選んでくれたのが狂喜の理由かと邪推してしまいました。この描写には別の原因も考えられます。男性に比して女性アイコンの創造をおざなりにしてきた馬脚。長澤まさみさんのセリフ「人質に出すために嫁を取るというのはどうでしょう」というのはどうでしょう。戦国女性の哀しみはまるで伝わってきませんよね。そんなの描く気もないんでしょうけど。

ナマクラ刃物が主人公を襲う

今回の感想テーマであるテレビ美術を語る上で、とても残念なシーンがありました。上杉景勝の元に赴いた信繁が、おびただしい数の長巻に囲まれたところです。主役の堺雅人さんの見せ場ですから、カメラは当然顔のアップ。そのせいで顔前の刀の群れが偽物だと丸わかりとなりました。
長巻に刃が付いていません。一つの地金でできています。これでは日本刀と呼べません。中には長期にわたってドラマで使用された物でしょうか、木材ならではの傷やへこみがそのまま映り込んでいる代物がありました。他にも、スプレーガンでシルバーを吹いたはいいけれど、その後の磨き処理を怠り、ゆず肌だらけの材木が照明に輝いているとか、ひどいのになると塗膜が薄くて下地の木目が見えている奴まで登場(セリフ「武士としての誇りを守りたいと存じます」のカット)。主人公に向けられた必殺の武器がこんなナマクラ揃いでは、視聴者は緊迫感を持つことができません。すべてをさらけ出すデジタル放送の能力をナメ過ぎです。
今回は、徳川と北条の両室で同じ畳を使いまわししていることも気になりました。縁(へり)が同じだから、すぐにわかります。冒頭に紹介したインタビューを読むと、メイクの担当者が自分の仕事によって俳優の役づくりをしてる自負がにじみ出ています。畳縁の色や模様を変えることで、各大名の性格や嗜好を視聴者に表現してみせる気概を美術に求めるのはぜいたくなんですかね。
テレビドラマの美術や音声は、新技術への対応過程にあるのでしょうか。よもや大河ドラマの制作予算の多くが豪華キャストのギャラに費やされ、裏方はなおざりにされているのではあるまいか。彼らの力なくして時代劇は成立しません。しかし、だれにも顧みられなければ、手を抜きたくなるのが人間の性。視聴者が気を配り、話題にすることこそ、放送文化の一端である映像劇の水準向上につながるのかもしれません。

「遠山の金さん」に学ぶ美術

1月に死去した4代目中村梅之助の代表作に「遠山の金さん」(NET系、現・テレビ朝日系)があります。庶民派の新テレビスター梅之助の魅力と、お白洲でのキメ場面が大人気となりました。撮影の度に桜吹雪の刺青を描く裏方がいました。今日はその職人を紹介することで、美術の仕事について考えてみます。1972年6月2日付の朝日新聞夕刊「『遠山の金さん』が100回目」から引用します。
(前略)毛利清二さん(40)は、もう一つの“売物”遠山桜のいれずみを描き続けている。立回り(ママ)で1回、最後の白州の場面で1回ずつ桜吹雪を見せ、その都度描くわけだから、こちらはなんと2百回も描き続けてきたことになる。最初の10話までは細かい桜吹雪を描いたので、描き上げるまで約2時間半、現在はテレビ向きにと絵柄を大きくしたので1時間半で描き上げる。
この桜吹雪は毛利さんのオリジナル。むかし片岡千恵蔵のやっていたのとは大分違うそうだ。毛利さんはもともと俳優で、この道にはいって7年。梅之助のはだに桜吹雪を描き上げた後は、自分もカツラをつけて、金さんに斬(き)られる役もやる。引退した藤純子の緋牡丹や「まむしの兄弟」(注・東映のヤクザコメディ映画シリーズ)のいれずみも毛利さんが描いているのは案外知られていない。(引用おしまい)
東映映画の刺青絵師としての著書もある、邦画マニアは知る人ぞ知る人ですが、その仕事ぶりが新聞に載ったのは珍しいことかもしれません。この職人は作品の人気におごることなく、刺青のテレビ映えや作業時短の工夫を欠かしていません。これぞプロ。
テレビドラマは、まやかしです。それがまやかしであることを一番知っているのは現場の人間たちであり、だからこそ、それをまやかしに見せない努力が求められるのだと思います。
そして、その努めが視聴者に見透かされない結果こそが、最高のまやかしなのでしょう。