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2016/01/28

天皇のフィリピン訪問に思う

天皇皇后両陛下が、慰霊のためフィリピンを訪問されています。彼の地では70年前の戦争で、日本人50万人以上、フィリピン人は100万人を超える生命が失われました。国の象徴である陛下が高齢をおしての長旅をされる“慰霊”の意味を、国民は知っておかないといけませんね。今日は、戦時中の同地での惨劇、そしてその後に生まれた友好の光を紹介します。
日米開戦直後、日本軍はフィリピンに侵攻します。当初は快進撃を続け、極東陸軍司令官マッカーサーをオーストラリアに追い出します。後に連合軍の反攻を受けると、屍の山を築くことになります。
両軍のドンパチによる殺し合いについては大岡昇平の「レイテ戦記」など優れた戦争文学がありますから、今回はおきます。戦争でいつも割を食うのは、女性やこども、民間人です。日本兵は苛烈な軍政に伴い、数多くの虐殺事件を引き起こしました。
1999年、戦中後期の日本軍によるフィリピン・マパニケ村での住民虐殺事件の命令書が、防衛庁図書館で見つかりました。両国の市民団体がまとめた現地からの証言は、酸鼻を極めるものでした。同年12月9日付の朝日新聞夕刊「ルソン島に埋もれた旧日本軍『虐殺事件』 作戦命令書、防衛庁に」より引用します。
(前略)現地調査や村の生存者90人の調査によると、1944年11月23日未明、マニラの北約80キロのパンパンガ州マパニケ村は日本軍の奇襲を受けた。村人は広場に集められ、男たちは縄をかけられて拷問のうえ銃殺されたり、焼き殺されたりした。
女たちは約3キロ離れた駐屯地に連行され、強かんされた。翌日から女たちは解放され出したが、村に戻ると家畜は略奪され、家々は焼かれていた。
タルシラ・サンパンさん(69)は「日本軍の手先になったフィリピン人が父を指してゲリラだというと、日本兵は父の体の一部を切断、父たちを校舎に入れて放火した。その後駐屯地のテントで3人の日本兵に強かんされた」という。強かん被害者だけで33人の供述書ができている。
フィリピンの日本軍研究でしられる作家、石田甚太郎氏が防衛研究所図書館で見つけた攻撃部隊の作戦命令書によると、「婦女子ノ殺傷ハ努メテ避クルモ匪賊混淆セル場合ニ於イテ一部ノ犠牲ハ止ムヲ得ス」「俘虜(捕虜)ヲ一囲ニ集合セシメ情報班ノ調査後処理ス」とされている。
部隊幹部は「処理」とは「殺すことも含む」とし、国際法違反である捕虜殺害もあり得たことを示唆。作戦命令書を起案した作戦主任参謀、河合重雄元中佐(94)は「制圧射撃のあと、3、4百人の部隊とともに村に入った。老人、婦人、子どもが広場に出されていた。私が村に滞在したのは2時間ほど。虐殺も強かんも聞いてない。私が知らないところであったら気の毒に思う」と話す。(引用おしまい)
なんでこういうこと、するかなあ。出どころが防衛庁ですから、間違いない資料でしょう。天皇陛下の慰霊は、戦死者のみにかかるものではありません。これからも外国の人たちと仲良くしようと思えば、過去を知り、遺恨を解消する気持ちがないといけませんね。
軍隊が手にかけたのは、現地の住民にとどまりませんでした。日本軍は1945年4月ごろには敗走中のセブ島で、日本民間人のこどもたちを、足手まといになるとの理由から虐殺しています。共同通信の記者が、終戦直後に太平洋米軍司令部戦争犯罪局の調査記録をフィリピン国立公文書館で発見しました。記事の配信を受けた1993年8月14日付の朝日新聞「比で敗走中の日本軍 日本人の子21人殺害」から引用します。
(前略)記録によると、南方軍直属の野戦貨物廠(しょう)の部隊。虐殺は4月15日ごろにセブ市に近い町ティエンサンと5月26日ごろその北方の山間部で2度にわたって行われた。
1回目は10歳以下の子供11人が対象となり、兵士が野営地近くの洞穴に子供だけを集め、毒物を混ぜたミルクを飲ませて殺し、遺体を付近に埋めた。2回目は対象年齢を13歳以下に引き上げ、さらに10人以上を毒物と銃剣によって殺した。部隊指揮官らは「子供たちが泣き声を上げたりすると敵に所在地を知られるおそれがあるため」などと殺害理由について供述している。
犠牲者の親は、戦前に九州や沖縄などからセブ島やパラオ諸島に移り住み、当時セブ島に集まっていた人たち。長女や子供3人を殺された福岡県出身の手島初子さん(当時35)は米軍の調べに対し「子供を殺せとの命令に、とっさに子供を隠そうとしたが間に合わなかった」などと証言。他の母親たちも「子供が殺されたことを知り、私も死のうと思った」「(指揮官を)殺してほしい」などの思いを伝えている。(引用おしまい)
もうね、皇軍って、なんでこういうことばっかりしていたんでしょうか……。セブ島に上陸した米軍の大戦力、そして山岳ゲリラとの激戦にさらされた日本兵は、恐怖と不信に凝り固まっていたのかもしれません。ホント、戦争なんてやるもんじゃありません。
こんな史実ばかりが続くと、若いみんなは、なおさらうんざりしちゃいますよね。最後に明るいお話をしておきます。
1945年にルソン島リパで行われた皇軍兵による大量殺人の事実を終戦の数十年後に知った一人の日本人がいました。三木睦彦さん。老後を同地で暮らすうちに事件に触れ、見ず知らずの犠牲者の慰霊碑建立に奔走しました。1992年2月23日付の朝日新聞「ひと」(大野拓司記者)から引用します。
(前略)マニラから南へ80キロ余のバタンガス州リパ市。太平洋戦争の末期、敗走した日本兵が住民約1500人を虐殺したとされる同地に謝罪の慰霊碑を建てようと駆け回ってきた。東京や横浜、大阪などで市民に呼びかけて千円、2千円の協力を募り、ようやくこのほど除幕にこぎつけた。
「最大の激戦地だったフィリピンには、日本人が建てた慰霊碑が各地にある。でも、それはほとんどが戦死した日本兵のためのもの。あの戦争ではフィリピンの人たちにも百万もの犠牲者が出た。その霊も慰め、きちっと謝罪しなくては……。新しい関係の出発のためにも」
フィリピンに住んで14年。東京の大学で教壇に立っていたが、60歳の時、友人に誘われてマニラに旅立ったのがきっかけだった。
「それまでこの国とは縁がなかったが、下町の雑踏が気に入りましてねぇ」
蓄えは7百万円。知り合いもなく、手探りで第二の人生に。フィリピンを一から勉強し、マニラの大学に無給の日本語講師の職を得るかたわら、貯金を取り崩しながら草の根の文化交流に取り組んできた。音楽会を開いたり、映画会を催したり。学生も数人寄宿させている。
(中略)「年をとっても、やれること、やるべきことはたくさんある」と、はにかみながら笑う。(引用おしまい)
新しい関係の出発のためにやれることをやる。マニラで日本人に家族を殺されながら、死刑判決を受けた戦犯たちを釈放、日本に復員させたエルピディオ・キリノ大統領の逸話が、このところ盛んに報道されています。釈放時の自国民への声明の中身と、三木さんの行動原理はまったく同じです。
今回の両陛下来訪の意図もまた、ここに等しくあるのだと思います。みんなは将来、この人たちの努めにこたえる道を考えてみたいと思いませんか。