しかし、ちょっと待て。容疑者宅の住所表示や自家用車のナンバーを編集もせずに垂れ流すとは、どういう了見だ。過去の痴漢の冤罪(えんざい)もご丁寧に紹介。「冤罪」なんだから、持ち出す必要ないだろが。容疑者とその家族には人権がないとばかりに興味本位の映像と情報を茶の間に送りつける放送局は、これが報道による公共の利益だと考えているのでしょうか。
被害者である女子高生たちにとって、自分の制服がいかに扱われたかと悪寒を覚えるは理解するに余りあります。犯罪は許されるものではありません。でも、罪が確定するまではだれしも犯罪人ではないんです。よしんば、この芸人が犯人であっても、周囲まで傷つけるような報道がなされていいはずがありません。松本サリン事件やロス疑惑といった、メディアが作り上げた過去の人権問題から、メディア自身は学ばないんですね。
今日は、1968年12月に東京・府中で起きた現金窃盗事件「3億円事件」での新聞報道により、人生をめちゃくちゃにされた青年のお話を取り上げます。
東京芝浦電気(現・東芝)従業員の冬のボーナスを積んだ現金輸送車が白バイ隊員を装った男に奪われた事件は、その金額の大きさから世間の注目を浴び続けた末に迷宮入り。事件発生から1年後の1969年12月12日付の毎日新聞夕刊が捜査線上に新たな容疑者が浮かんだ、と1面トップで報じました。「3億円事件に重要参考人」から引用します。年号は昭和です。
(前略)Aは横浜市生まれで、世田谷区内の私立高校を卒業後、38年3月ごろから39年10月ごろにかけて、現金輸送車強奪現場近くの小金井、国分寺両市内の牛乳店で配達アルバイトをしていた。その後、小金井市内のタクシー会社の運転手だった。読む人が読めば、参考人がだれだかわかる書き方です。「ねえ、この男クサいでしょ」と毎日新聞が読者に訴えかけているようです。捜査本部のAさんへの疑惑の数々も掲載されています。同記事から引用します。
性格は、脅迫状の筆跡鑑定で出された結果と同じく、非社交的で口数は少なく、日ごろ「おれは大金持(ママ)になって世間をアッと驚かせたい」と話していたという。(引用おしまい)
①住まいや牛乳店アルバイト、タクシー運転手の経験で多摩農協脅迫事件(注・1968年の現金要求脅迫事件)の府中市内、3億円事件の各現場の地理に精通している②高校卒業後、テレックス、仮名タイプ学院に通学したことがあり、脅迫状とみられる仮名文字を小刻みに切る“わかち書き”にくわしい③血液型はB型で、昨年12月6日、日本信託銀行国分寺支店の藤巻和夫支店長(当時)あてに出された脅迫状の切手(50円2枚)の血液型と一致する(注・別件の脅迫事件)④昨年8月、府中市内で朝日新聞多摩版に脅迫文を書いた“壁新聞”が貼られたが、Aも朝日新聞の購読者で、しかも昨年7月25日、多摩農協に対する5回目の脅迫のさい、農協近くの明星高校教員宅にかけてきた電話の声とよく似ている⑤運転免許は普通、自動二輪などをもち、運転歴は数年で運転技能も抜群である(引用おしまい)知識や技能資格、購読する新聞に至るまで、すべてが容疑に結びつけられた暴論です。暴論なのですが、毎日の動きを知った捜査本部はその日にAさんを別件で逮捕。別件と知りながら新聞各紙は実名報道、三鷹警察署で刑事に両脇を抱えられたAさんの写真が1面を飾りました。「アリバイ成立ず(ママ)」「アリバイでたらめ」といった見出しが躍っていますけど、いきなり警察官に連行されて取調室の中で「1年前のあの日、お前はどこで何をしていたか、正確に述べよ」なんて言われて、答えられる人はそうそういるものではありません。
13日付の読売新聞に土田国保刑事部長の談話が載っています。「五分五分だ」から引用します。
(前略)東芝、多摩農協、日本信託銀行との関係についてはまだ何も出ていていない。これらの点から本筋の3億円事件ではまだ五分五分であるが、はっきりしない点がある以上、ここではっきり決着をつけたい。別件逮捕で追及するのは非難もあるだろうが、いままで調べた参考人のなかでは、いちばんあやふやな点が多いといえる(引用おしまい)容疑「五分五分」で逮捕して、「決着をつけたい」とは、なんといいかげんであることか。権力の暴走ってこわいですね。土田国保は、後に警視総監を経て防衛大学校の校長に出世しました。官僚とは気楽な商売です。
穴だらけの容疑が固まるはずもなく、やがてA青年は釈放されます。手のひらを返したメディアが賞賛する中、シャバに出たAさん。
しかし、大事件の容疑者として顔も名前も知れ渡った有名人は、定職に就くことすらできません。週刊誌の記者が自宅におしかけ、望遠レンズに狙われる日々。家族は離散し、極貧のうちに自殺したそうです。
3億円事件のA青年と、今回の芸人逮捕の報道は酷似しています。住所をさらす、クルマもさらす。容疑者にプライバシーはない。人権などもっての外である……。
服泥棒の話題なら、もっと大事な事件があるじゃないですか。現役の復興担当大臣が、女性の下着を盗んだの盗まないのという疑惑ですよ。徹底的に調べて報じて、白黒をはっきりつけるのが公共の利益。無実が証明されるのであれば、大臣もさぞお喜びになることでしょう。