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2015/10/04

朝ドラ「まれ」と話し言葉

NHKのBSプレミアムで再放送された朝ドラ「あまちゃん」最終回での画面と劇伴音楽のシンクロがすばらしくて、そのていねいな仕事ぶりに感心しました。「引きこまれている最中に歌詞のテロップなんか出すな、邪魔だ」と、文句の一つも言いたくなるくらいの出来でした。テロップは、最大公約数の視聴者を相手にせんがゆえの判断だったんでしょうけど。映像劇って難しいですね。
その1週間前、なんとなく終了したのが「まれ」。東京から夜逃げしてきた宇宙人一家が、地球外生命体ばかりが生息する能登の集落に現れる。主人公が居を移した横浜もやはり変な生物が巣食っていて、現代の文化文明に生きる我々には、まるで理解できない暴言、職業倫理の破壊、セクハラが連発されるフラチな悪行三昧。何かと不愉快極まりないヒロインから、たかが菓子を買うために離婚した家庭の状況を初対面の店員にぺらぺらしゃべる端役のおっさんまで、異常者ぞろいでした。モンスター映画「寄生獣」を、人食い生物側の価値観から描いたような怪作。だれ得?
視聴者をイラつかせる効果は主題歌から万全。朝っぱらから低音のドラムがドタバタ鳴り続けて耳のガサつくこと、この上ありません。経験から言うと、起き抜けにディープ・パープルやユーライア・ヒープなんかのハードな音楽聴いて平気だったのは中学2年生あたりまで。この辺はテレビ小説の視聴層ではありません。「あまちゃん」の挿入歌「潮騒のメモリー」も、結構な数で太鼓たたきまくっているんですが、気にならなかったのは、楽器の選択や音量に気を使っていたからなんでしょうね。ダメだ、どうしても「あまちゃん」の音楽をホメてしまう。
「まれ」のヘビーな演奏に乗ってる歌詞が、本編にふさわしい意味不明のカラッポでした。「未来」「地図」などといった、やっつけJポップにありがちな空疎な言葉が並んでいます。一人称が「わたし」「ぼく」と、混在しているのも減点対象。放送局の放送用語委員会は機能しているのでしょうか。国語が使えない劇は、作り手の心配りに欠けた作品だと言えるでしょう。
今日は、日本語の観点から「まれ」の分析を試みることで、まじめなドラマ制作の姿勢について考えてみます。母親が「シミュレーション」を「シュミレーション」と口走ったり、老人と中年の職人コンビが雁首そろえて「コラボ、コラボ」と連呼したりと、日本語に限らずおかしな言葉遣いだらけだった本作。その中から「全然」に注目します。草笛光子さん、常盤貴子さんの母娘が関係を修復する大事な場面がありました。母の思い出のキャロットケーキを娘が口にします。直後の常磐さんのセリフが「(以前食べた経験を)全然忘れてた」。
おじさんの世代は「全然」を、否定や対象の比較を伴う形容詞、または一般に形容動詞(平気だ、おだやかだ等)と呼ばれる品詞に付くものだ、と習ってきました。言葉は時代とともにうつろうものとはいえ、「全然、大丈夫」といった語法には違和感を覚えます。ところが、この「まれ」のセリフは、「忘れる」という“動詞”に「全然」をぶっ込んできた国語への挑戦ともいうべきケース。脚本家は視聴者の反応を「シュミレーション」したのでしょうか。公共放送の文化研究所は、これで「全然、大丈夫」だったのでしょうかねえ?
「全然」が「まれ」のごとく使用されていた時代もありました。明治時代です。1906年7月19日付の東京朝日新聞「全然中止」から引用します。
露国の状態に顧み英国艦隊の波羅的(バルト)巡航は全然見合せ(ママ)となれり。(引用おしまい)
英国艦隊がバルト海への遠征を中止したとの内容。「全然」が「完全に」の意で使われています。つまり「まれ」は明治時代の用語法でドラマを作った、と。だれ得? おそらく、脚本家は国語の文法を理解できず、無意識に使っちゃったんでしょうね。
もっとも、前述したように言葉は時代とともに変化します。「全然」が否定の意味を伴わずに使われだしたのは1960年代前半であろうかと思われます。1964年10月6日付の朝日新聞「言葉のしおり」から引用します。
このごろの若い人たちは「あの映画は全然いいんだ」とか「あそこの食事は全然うまいよ」とかいう。この場合の「全然」は「非常に」「大変」という意味である。
しかし、「全然」は、本来は「全然出来ない」「全然感心しない」のように、否定の意味を伴う副詞で、意味は「まるっきり」である。それを「全然いい」「全然うまい」と肯定表現に使うものだから、年寄りたちからは、とんでもない使い方だと非難される。
ただし、このような使い方は前例がないわけではない。今、東京では「とてもきれいだ」「とてもうまい」のように、「非常に」「大変」の意味で「とても」を使う。しかし、本来は「とても出来ない」「とても動けない」のように、「とても」は「どうしても」の意味であり、否定表現を伴う言い方なのだ。それが、明治40年代ごろから学生たちの間に愛用されて、今では、東京の口頭語としては普通の使い方になってしまっている。(引用おしまい)
言葉の意味が変化していく経過を表した好例です。「とても、うまい」の用法は現在、全国で普通に使用されています。さすがに後ろに来るのは形容詞ですがね。「まれ」の「全然、忘れてた」は、「とても、忘れてた」と言うに等しい、NHKの国語崩壊の一例なのです。
語感の面白さから、意味が変化していく言葉もありますね。このブログでは、「めちゃめちゃカッコいい」というような「めちゃめちゃ+肯定形容詞」の誤用をあえて時々使います。これは、かつておじさんが漫画「じゃりン子チエ」中の言い回しにハマり過ぎたせいです。語感がいいので、つい多用してしまいます。同様の例を、戦前からNHKアナウンサーとして活躍、物語芸人として舞台にも上がった話し言葉のプロ、高橋博のエッセイに見ることができます。1974年7月27日付の朝日新聞「話し言葉 結構」から引用します。
「きのうの新聞でいってたわ」
何気なく聞き流して、自然に受け入れてしまう言葉だが、ラジオの出現する前には、おそらくこういう表現はなかったであろう。
「久しぶりだ。一杯やりませんか」
「いやあ、結構ですな」
「もう一杯いかがです」
「いやもう、結構です」
この“結構”という言葉、要と不要を表して便利だが、どちらの意味にとったらいいのか迷う場合もある。
「おかしくない漫才ほどおかしくないものはないね」
おかしくないことを強調する、ちょっとしゃれたつもりの言い方だろう。「あんなヘタくそな漫才、おかしくって笑えるかい」と相通じる。言葉は調法なもの。おかしかったら笑えばいいのに、なんて理屈をこねてはいけない。笑うことすらできないおかしさも存在するのだから。
「すごい」は元来、「すさまじい、おそろしい」という意味だが、これも「それが、すごく静かな所なの」「彼氏、すごくおとなしいの」という具合に活用される。
「もう帰る、明日がバカ早なんだ」というように、「バカ」も利用範囲が広い。いつごろから「バカ」が「大そう」の意味を持つようになったかは別として、もしその意味がなかったら、激突して収拾困難な使い方もされている。
「あいつはバカに利口な男でね」(引用おしまい)
話し言葉はうつろいやすいもの。プロは大事に扱ってほしいものです。言葉遣いに気を遣わないドラマは、制作に気配りがない駄作になりがちだと思って間違いないと思います。
現在放送中の朝ドラ「あさが来た」はどうでしょう。木に登ったヒロインが「春が近づいてはる」と言いました。動詞の活用がダメです。それでは動詞を修正して、「近づいたはる」「近づいてきたはる」だったらいいのか。いやいや、季節に敬語を使う主人公はバカに見えますよ。
ナレーション担当の杉浦圭子アナウンサーが「父」を「ち」と関西なまりでしゃべってしまったミスを、そのまま放送した場面もありました。日本語に頓着しないドラマ、今後が心配です。

追記:NHK放送文化研究所のウェブサイトは、話し言葉についての興味深い論考が満載されていて、大変面白いです。「全然」についても、塩田雄大さんが言及しています(2006年3月1日)。「まれ」は「全然」が動詞に伴う用法を、公共放送が流してしまった、まさにマレな例だったようですね。