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2015/04/20

「花燃ゆ」第16話感想「サイコのショック」

ついに尊攘の牙城水戸藩登場か、待ちかねたぞ! タイトル直後に「茨城」のテロップが出たと思ったら、「萩城」の見間違いでした。ミト、どこ行った? この作品における安政の大獄とは、いったい何なの?
いちいち筋を追うのも面倒くさくなってきました。久坂玄瑞がフリー過ぎます。梅田雲浜と同席してたんでしょ。家宅捜索現場にいたんだよね。長井雅楽なんかの長州藩首脳は、過激派が煙たいから江戸屋敷に蟄居させていたのだと善意に解釈していましたが、都合よく帰ってきやがった。江戸時代には通行手形というものがありましてな。路銀も結構かかりましたんですよ。
吉田松陰も、志とやらを「さばかれる直前の魚の目(このままじゃ終わらん)」に例えられるとは。文字通りお茶吹きました。我が家の食卓が大変なことになりましたよ。この脚本、どこまでイカレているのでしょう。
この書き手さんは「もはや」って言葉が好きなんですが、その「もはや」が出てきたら、後に続くセリフにはもはや中身がありません。今回も現れた無意味な書物と同じ、「花燃ゆ」のギミックの一つですね。
この主人公、まだ要りますか? すること為すことしゃべること、一事が万事不愉快な女ですが。江戸時代にはあり得ないなどと論じる以前に、現代の価値観で見ても、女性としてタチが悪い。もう出てこんといてくれ、と心から思います。「江〜姫たちの戦国〜」の女どももたいがいでしたけど、嫌われ度でいうとあいつらを超えたな。人として、テロの首魁吉田松陰より嫌い。兄に代わって江戸送りになってほしい。叔父上、「見苦しく動き回るな」のセリフは毎回言うてくだされ。
杉家全員クズですが、小田村伊之助の嫁の「お前らの何もかも大嫌い」は唯一良いセリフ。視聴者の声を代弁しています。
一方で、松陰が久坂に投げた「文の手を離すなよ」なる言葉が嫌だなあ、なぜだろう。あっ、あの地獄の朝ドラ「マッサン」のボケ野郎の決めゼリフだ。あのエリーとかいうブロンド女もとんでもないひとでなしキャラだったよ。
児童文学作家の松谷みよ子著「現代民話考(8)ラジオ・テレビ局の笑いと怪談」(ちくま文庫)を読めば、放送局は人を育てようとする場所ではなく、使い捨てにする工場だということがわかります。だから自分が捨てられないためにも良いものをつくろうとするのでしょうが、「花燃ゆ」のスタッフ・若手キャストはこのままでは使い捨て要員。何の魅力もありません。ハダカの久坂玄瑞の棒振り一つとっても、足の運びとか殺陣の基本がなっちゃいない。
今日は1981年3月8日付読売新聞の東野英治郎「漫遊無限」から引きます。
立ち回り(殺陣=たて)に命を賭(か)けるというと、大げさかもしれませんが、演じている最中は、それに近い状態にあるのではないでしょうか。
阪東妻三郎さんの殺陣は、凄惨(せいさん)という言葉が当てはまりますし、現役では、萬屋錦之介さんがお上手です。ただ、うまいというだけでなく、迫力がある。
僕も大河内伝次郎さんとからんだことがありますが、この人は刀を当ててくるのです。「こわいですね」と言うと、
「当たり前だ。僕も当てますから、あんたも遠慮なく当てて下さい」
例の、とつとつとした口調ながら、すごいことをおっしゃる。
月形龍之介さんは打ち込む刀が額の寸前でぴたりととまる。寡黙の月形さんは、ぽつんとひとこと、
「当てないから大丈夫」
そうは言っても、眼前に刀が迫るわけですから、受けに回る僕としては、この間合いが何とも切ない。
嵐寛寿郎さんは、尺八を使うのが上手でした。虚無僧の役をよくやられましたし、尺八を刀代わりにした見せ場がかっこよかった。
寛寿郎さんも当ててくる方で、僕は直接、たたかれたことはありませんが、当てられた人は痛いと言っていました。ふとい尺八ですもの、あれでビシッとやられては、たまったものではない。
普通、立ち回りは竹光(たけみつ)を使いますが、だからといって気を許してはいけません。「はい、カット」という監督の声で立ち回りシーンが終わると、カツラから額にかけてすーっと一筋、血を流す人がいる。カツラの上からたたかれて、額を切ってしまうのです。ゾクッとする一瞬で、ことほど左様に、息づまるものです。(引用おしまい)
幕末勤皇思想の流祖、水戸黄門さまを演じた人気俳優の回想です。今とは労働環境が違うとはいえ、映像劇に対する現場の真剣さは学ぶべきでしょう。
と、まじめに書いていたら、次週は「吉田寅次郎対井伊直弼」か。どこまで続くぬかるみぞ。