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2014/12/02

菅原文太の遺言、「人は人として扱われるべし」

俳優の菅原文太さんが亡くなりました。
先日鬼籍に入った高倉健と同じく東映ヤクザ映画を足がかりにスターになった人ですが、高倉がメディアへの露出を避けたのと対照的に、政治、農業、教育、原発など諸問題に積極的な発言を続けてきました。
1988年、TBS系・毎日放送制作のドキュメンタリー「中村敦夫の地球発23時」が、編成の都合で放送を土曜23時から水曜午後7時へ移動されます。これに異を唱えた中村敦夫さんが司会を降板させられる事件が起きました。局側があげた降板理由に、中村さんの「自分は電波芸者だからどこででも踊るが」との発言がありました。
菅原さん、いや文太兄ぃは黙っていられません。新聞にメディア論を投稿します。同年3月29日付の朝日新聞・論壇「惜しい中村敦夫の降板」から引用します。
(前略)彼が番組から降ろされたと聞いて、「ああまたか、やっぱり」と感じました。出演する側の人間を、コンピューターの部品ぐらいにしか考えていないテレビ界の体質をまさに露呈した、という感想でした。
この一文を書く大きな理由は、一つは同業者として座視できないことがらであること、彼を擁護する声が同業者の側から聞こえてこないこと、もう一つは、社会全体の中に、この問題に限らず、人間を人間として扱うという風潮が風化されはじめ、チャプリンの「モダンタイムス」ではないけれど、人間の存在そのものが歯車の一つになっていることの恐ろしさを改めて感じ取ったからなのです。
今度の問題は、ある俳優が舞台からはずされたり、番組から降ろされたりという、演出家や作家と演ずる側の衝突とか、プロデューサーと演出家の意見の違いとかとは違った重要な問題をはらんでいると思います。文明が発達すればするほど、良質の人間の存在そのものがわい小化され、不必要とされてしまうというような機能が働くことの恐ろしさを、表しているのではないでしょうか。
(中略)もう少し具体的に論ずると、一つはテレビという巨大なメディアのかかえている問題があります。その中で使われている俳優、タレント、中村氏流に言えば踊っているタレントたちの役割と実績、働いた分の値打ち、人間だから持っている存在の力、そういうものが軽視され、視聴率あるいは巨大メディアの持つ目に見えない圧力のようなものに、実に簡単に一片の通達だけで外されてしまい、それに対しての自己主張、それも抗議ではなく提言すらも一顧だにされない現状を座視はできません。
そうして戦列を離れていった良心的な俳優、タレントは数多くいたにちがいありません。こびることと従順になることによって、タレントは本来持っている個人の力を自ら弱めていってしまうことになるのです。戦うことを放棄したタレントを待ち受けているのは、果てしないアリ地獄とも言えます。
「地球発23時」が、見る側の支持を得、作品としても力を持ち得たのは、もちろん企画の力、現場に携わる人たちの熱意と努力もあるでしょうが、何よりも中村敦夫氏の真しな番組への姿勢と、彼の魅力が寄与していたはずです。それを認める謙虚な目を、メディアの側は失っているとしか思えません。
彼が自らのことを「電波芸者」と言ったことが大きな降板理由にされていますが、僕は彼の気分が実に良く理解できるのです。僕も問われて自らのことを「しがないヤクザ俳優」と言い続けてきました。それは自らをおとしめて言っているのではなく、人間としての韜晦(注・才能や地位を隠すこと)です。(中略)あなたは一世を風びしたテレビドラマ「木枯らし紋次郎」で、僕は映画で、「あっしにはかかわりのないことでござんす」という名せりふを流行させましたが、今度ばかりは「あっしにはかかわりのないことでござんす」と言うわけにはまいりません。(引用おしまい)
テレビ局批判であり、同業者の萎縮への警鐘でもあります。宮城県仙台第一高新聞部時代、後輩部員だった井上ひさしの原稿を目の前で破って没にした菅原文太さんの情報産業に対する気骨が伝わる一文です。
これから追悼番組が山ほど流されるのでしょうが、このエピソードはテレビジョンにはスルーされる可能性が高いので、記憶されるべき菅原さんの一面として取り上げてみました。