前項からの続きです。サントリーの宣伝の巧みさは業界屈指と言われています。第1次高度成長期の終わりごろには、開高健や山口瞳ら、後の文壇を代表する多士済々のメンバーを輩出しました。時代ごとに名キャッチコピーを生んで、売り上げを伸ばしてきました。
創業者鳥井信治郎が、竹鶴政孝を迎えて京都の山中、山崎にウイスキー工場を構えて後の1929年、サントリー(当時の屋号は寿屋)は、満を持して国産ウイスキー第1号を世に問います。そのころの新聞広告の文章は、およそ現在でも通用すると思われる、サントリー宣伝部の面目躍如と言える一文でしょう。
1930年1月13日付の東京朝日新聞「断じて舶来を要せず サントリーウ井スキー」から引用します。仮名遣いや旧字の平仮名化、句読点などはおじさんが改めています。
ポットスチルに拠るスコッチウイスキーの醸造!そは実に吾国(わがくに)において吾社(わがしゃ)が忍苦十年のあまりここに初めて完成を告げ、今やサントリーの名を冠しようやく世に見ゆるを得たるを欣ぶ(よろこぶ)。そもそも本ウイスキーの醸造は科学を超えし神秘に属し、気温、地勢、湿度、水質等々多くこれをすこぶる微妙の天恵に待つの他、長年貯蔵熟成を絶対要件とし、なお10年貯蔵の暁にその貯量の半減を見るべき自然の数理を有するものなるが故に、その経営の困難けだし世のいわゆる営利家の容易に手を下しあたわざるものあり。しかも、吾社はいささか醸造立脚の義務を解し、あえて自からこの難業の任に志して、つとに原産地蘇格蘭(スコットランド)の代表工場に在りて多年親しくその神秘の扉を叩きて解き得たる技師を聘し(注・礼節をもって招く)、四方に遍路して彼の蘇国ローゼスの峡谷と全く同じい風土を探らしめ、ようやく近畿淀桂木津三川(注・淀川、桂川、木津川)合流の地域、天王山の荊棘(けいきょく、注・木のとげ)を分けて、その中腹に理想境を発見するに及び、技師を再び渡英せしめて百事遺漏なきを期し、爾来(注・それ以後)営々山を切り、地を拓いて工を励み、かたわらスコッチ麦種を将来し、内地にこれを蒔いて好果を収め、我行精進いやしくもせず、創業実に10年を閲して今ようやく発売するの幸運に会う。時たまたま金解緊縮の秋、政家ならざる吾等の国産なるの故に、強いて嗜好の口を曲げてこれを世に奨むるにはあらざるも吾国民常食の米ならざる麦種をもって醸し成す唯一国産ウヰスキーが、舶来高価のそれに比して品質香味断然劣らざるものあるに至っては、これを推しこれを薦むるにはばからずといえど、なおしばらく東洋謙譲の徳を学んであえて自らへりくだり、伏して白す。願わくは各位、一たびご試飲を吾がサントリーに賜え!と。(引用おしまい)
まずは蒸留釜を「ポットスチル」なる、英語の専門用語にしました。ほとんどの日本人が聞いたことのない言葉。でもこれが、西洋の技術を使って醸造を行う「新しさ」と「本物の持つ高級感」を消費者に想起させます。
次に醸造の困難を説き、優れた職人(竹鶴)を有している点をアピール。読みようで技師がスコットランド人とも誤解させるあいまいさが絶妙です。
絶好の地に工場を設け、発売に10年をかけた事実(計算が合わないような?)を提示して、さらには消費者を持ち上げて自らはへりくだり自信作を推奨する。
この長い一文を書いたのは、稀代のコピーライター片岡敏郎だと思われます。ニッカと違うのは、商品と同時に会社のブランドイメージをも上げようとしていること。大きな五段抜きの目立つ広告です。
真ん中には瓶の写真が鎮座していますが、ラベルには堂々「SUNTORY SCOTCH」の文字が。京都製をスコッチ扱いしたら、現代では景品表示法に引っかかるんだけど、おおらかな時代だったんですね。
わかる人にわかればいいって感じのニッカと、金持ちから貧乏人までサントリー製品を飲んでもらい、洋酒の布教に努めたサントリー。この辺りのドラマがうまく描ければ、「マッサン」にはまだ面白くなる余地があります。