引き続き、東京裁判の新聞記事を引きます。1941年の日本軍香港攻略戦での1946年12月19日の朝日新聞「東京裁判 重傷兵を寝台に刺殺す」を引用します。仮名遣いや改行、句読点など、おじさんが現代風に改めています。
(前略)香港の捕虜虐待の証人としてカナダ軍の従軍僧ジェームス・バーネット大尉が出廷、降伏時の日本兵の暴行、収容所の状態につき、次のように証言した。日本軍の病院での残虐行為は、Wikipediaの英語版にも載っているぐらい有名な事件です。日本語版では虐殺皆殺しの話はすべてネグられているんだけどね。戦後の日本人は、東京裁判の新聞記事を読む度に便所に走ったのかな?
12月25日午前6時、セント・スティーヴン・カレッジ(St.Stephen's college)病院ではじめて日本軍の侵入をうけ、160名の傷病者と7名の看護婦はせまい倉庫につれこまれ略奪された。その夜、香港の降伏を聞き、26日、病院に帰ったが、そこでは約70名の重傷兵が寝台で寝たまま刺し殺され、従兵2名が耳、鼻、舌をそがれ、眼球をくりぬかれて死んでいた。看護婦のうち3名は殺され、無事だった4名も25日一晩中、日本兵の要求通りに利用されたと告白していた。
5月、香港収容所長の徳永大佐が、全捕虜に「逃亡を企てない」との宣誓書に署名を命じ、それを拒否した1捕虜は約1カ月間監禁・拷問された。
昭和17年9月25日、米軍が初めて香港を空襲した。患者の中でこれに歓呼した者があるとの理由で、11月初め、バウイー院長らは斎藤軍医からなぐられ、我々も一人一人顔を平手打ちされた。カトリック神父のグリーン大尉は、バチカンから捕虜の福利施設のため贈られた金について質問したため、将校からなぐられ、それが原因で長い間重体が続いた。正午休憩。
午後再開。証人は終戦前の香港収容所長本田曹長が捕虜を非常に親切に取り扱ったとして退廷。続いてマンスフィールド検事から連合軍捕虜将校が海南島で撮影した、栄養失調でやせ細った捕虜の写真29葉、アンボン島、アンダマン、ニコバル諸島で土民に対して行った残虐行為を物語る多くの口述書、さらに台湾の全捕虜に対するおどし文句として「銅山にやるぞ」との言葉を生んだ金華銅山での秋山収容所長以下の鬼畜行為を描写した英軍砲兵中尉の口述書などを朗読して4時閉廷。(引用おしまい)
今振り返ると、「日本鬼子」体験は、おじさんが戦争や軍隊といった代物を覚えずして嫌いになっていった契機の一つだったように思われます。でも再見するかしまいか、煩悶しています。
でも、未見の人にはチャレンジしてほしい。おじさんと同じくイヤ〜な気分を味わう体験は、母国の過去と未来を考える上で有意義である点、そこだけは自信を持ってオススメできます。できうれば、大日本帝国の大陸と太平洋への「進出」が正義であったと信じる皆さんにも、ぜひ視聴願いたい。
自分の目で確認していないものを批判することはできません。だれも朝日新聞を熟読せずして朝日新聞を糾弾できず、産経新聞を精読せずんば産経新聞をバカにできない。ネットで雑誌で、知ってるつもり? 盲人らがゾウをさするがごとき、知ったかちゃんな空気が充満する日本が危うくて危うくて、おじさんはまたまたトイレで嘔吐しそうです。
「日本鬼子」。見ようか、見まいか。14年前のあの気分をまた味わうのかよ。14年ぶりにトイレで吐くのか。まったくやっかいな作品をDVD化してくれたものですよ。
追記:こんなイベントも開催されるようです。