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2014/10/04

もう一つの敗戦の日に思う(1)

一昨日は我が国の第二次世界大戦敗戦記念日だったというのに、戦争がおおっぴらに語られることもなく、日本はとても静かなものでした。
9月2日は、米艦ミズーリ甲板で連合国への降伏文書(休戦協定)に調印した日です。これをもって、満州事変から数えて十数年続いた戦争が終わりました。
世界中の終戦記念日。内向きの玉音放送があった8月15日を終戦記念日と称しているのは、ガラパゴス化したジャパンだけです。なんでだろう?
その平穏だった9月2日、あるニュースがおじさんを驚愕せしめました。これまで見た映画の中で、もっとも残酷で不愉快で胸の悪くなる作品がDVDになるというのです。
「日本鬼子(リーベンクイズ)」というドキュメンタリーです。14年前、客席ガラガラの小さな劇場で見ました。
元日本兵たちが大陸で行った行為を自ら語るだけの内容なんですが、話の中身がえぐ過ぎる。中国の民間人を殺して殺して殺して犯して殺して殺して犯して殺す。それを普通のおじいちゃんらが淡々と話していきます。
おじさんが覚えているのは、女性を生きたまま井戸に投げ込んだら、幼子が母の後を追って井戸に飛び込んだ。親子を苦しめるのは不憫なので中に手榴弾を放り込んだってヤツ。こんなのが2時間以上、ずーっと続くんです。上映後にトイレで吐いたのは、後にも先にもこの時だけ。
アジア解放の先兵たる皇軍が、性酷薄な人殺しぞろいのゴロツキ愚連隊だったとは信じがたい、と思う人もいるでしょう。しかし、終戦直後の国民が、リアル「日本鬼子」を毎日のように見聞きしていた時代もありました。東京裁判です。
ここでは約1年半にわたり、戦時中の軍による残虐行為が俎上に上りました。裁判に関する史観はおきます。どんな事案が取り上げられたのかを紹介します。
1946年12月17日の朝日新聞「東京裁判 捕虜虐待の“武士道”」から引用します。仮名遣いや改行、句読点など、おじさんが現代風に改めています。
16日の東京裁判から戦争法規および慣例違反「捕虜民間抑留者および占領地区の住民に対する罪科」の段階に入り、マンスフィールド検事、冒頭陳述を朗読、終わって捕虜取り扱いに関し、スイス政府を通じての各関係国との往復文書などの書類を提出。
(以下冒頭陳述要旨)日本軍は戦争法規は全く無視し捕虜を自己の法典たる「武士道」に基づいて取り扱い、ジュネーブ協定のうち適用するに便なる部分のみ適用した。昭和17年シンガポール降伏前後の残虐行為、バンカ島の大量虐殺、ニューギニアのトル農園の虐殺など、枚挙にいとまなく、捕虜に対する待遇は残酷を極めた。大抵の地区において日本に連合軍が上陸するか、あるいは捕虜奪還の企図があったら全部殺すという計画があった。(中略)
一つの事実としてあげるならば、独伊で逮捕された14万2319人の英人捕虜のうち7310人(5.1%)が死亡したのに対し、日本では5万16人の英人捕虜は監禁中、1万2433人(24.8%)が殺害され、死亡した。
日本降伏後、捕虜関係事項の中央調査委員会なる一機関の調査された事実から見ても、日本政府および被告は、抗議を受けた当時調査のため、何ら手段を取らなかったと推定される。
第4回ヘーグ条約(ハーグ条約)によれば、捕虜は敵対国政府の管理下に置かるもので、逮捕した個人または部隊の管理下に置かれるのではない。(引用おしまい)
捕虜4分の1は殺し過ぎ。バターンやサンダカン、泰緬鉄道建設での捕虜の扱いは有名です。全部とは言わずとも、ある程度はやっていたと考えた方が自然かな。毎朝新聞を読む国民の苦悩はいかほどであったか。この項、続きます