我が国は敗戦国。最近「旧敗戦国」なる言い方を定着させようとする動きがあるようですが、それは欺まんです。「旧戦勝国」とは言わないでしょ。姑息な言い換えで、戦争に負けた劣等感を少しでも癒そうとする小細工は、日本人の精神を害するだけです。
妙なことに気がつきました。「戦勝国」と「敗戦国」。国語文法的に相反する。図書館で朝日新聞の紙面データベースを開きました。「敗戦国」と「戦敗国」と、それぞれ入力して検索すると面白いことがわかりました。戦前は両方の言葉が共存しています。ところが、敗戦を境に「戦敗」は1940年代のうちに次第に淘汰されていったのがわかります。「戦敗国」と「敗戦国」との国語決戦は、「敗戦国」が「戦勝国」に。「勝戦国」という言葉は、明治時代の記事に一回こっきり現れたのみなので、少なくとも20世紀以降は「戦勝国」が正しい日本語とされていたと推測しました。
それなら本来は「戦敗国」が正しいはず。ここからは憶測です。「センパイコク」と「ハイセンコク」の違いは、半濁音「パ」の有無。惨敗を喫し、有史以来初めて外国の占領を許した国民は、語感の強い半濁音が入った「センパイコク」を避けて、「ハイセンコク」を常用するに至ったのではないでしょうか。
このような日本的言い換え精神風土に敢然と反旗をひるがえした人がいます。作家の阿川弘之・元大日本帝国海軍中尉です。1957年8月15日の朝日新聞への寄稿「敗戦記念日に思う」から引用します。
(前略)戦後占領軍を進駐軍と呼び、敗戦を終戦といい、こんにちもこの日を終戦記念日と称している事に、私は賛成出来ない。さすがは陸軍嫌いで知られる阿川先生。戦後12年が過ぎても 、退却を転進と呼んだ旧敵への皮肉を忘れない。噛む馬は終いまで噛む。もっとも、姑息な言い換えに対する論旨は至極まっとうです。引き続き寄稿を引用します。
それは、退却を転進と呼んだのと同じく、言葉のすりかえによって、万人に明かな事実をはぐらかしてしまうことである。国語の性質にもよるのだが、わが国の公式な発表文というものは、政府、労働組合から電鉄会社に至るまで、しばしばこういう不明確な表現に満ちている。一つのあいまいな言葉を、繰り返し聞いているうちに、多くの人がその事実(注・「事実」 に強調マーク)に対し、あいまいな納得のしかたをしてしまうのだが、これはその言葉を意識的に利用する側についていえばずるく、受け入れる側についていえば、精神の態度として、弱い。 (引用おしまい)
戦前の12年は長い月日であったような気がするが、敗戦後の12年はまたたく間に流れ去った。私たちは繁忙にまぎれ「終戦」という言葉で感覚をぼやかされているうちに、いつか「負けた」事をそれほど強く感じなくなっている傾きがあるようである。開戦直前のハル・ノートの事を知ると、日本側にも三分の理はあったと見えるが、戦争をしかけたのはやはり日本であり、それに徹底的に負けて無条件で降伏したのも日本である。今、終戦記念日を敗戦記念日といいかえてみても、それが“臥薪嘗胆”の古い復きゅう(仇)や再興のよすがになる時代ではないが、この日にもう一度「敗戦」という事実を明りょうに認識して置く(ママ)事は無意味ではあるまい。(引用おしまい)以下、米国への恨み言みたいな言辞が続くのですが、面倒くさいからカットしました。
ハル・ノートだって、中身は帝国の存亡にかかわるほどの重大事とは思えませんが。強制力もないしね。昔の阿川先生はおいといて、最近の聖戦派までがなぜ、ハル・ノートが、ハル・ノートが、と悪の経典のようにさげすむのか?まずはマジにハルさんの苦作を読んでみようか。
あの阿川弘之先生が、「終戦記念日などと呼ばずに敗戦にしろ」とおっしゃっているのです。世界に冠たる大日本帝国の、さらには優越民族であるらしい大和民族は、美しい日本語を使うべし、を旨とするおじさんは(自分は使えてないけど)、「戦敗記念日」への言い換えを提唱しておきます。