世界の自転車史上、もっとも過酷な戦いを経験したチームは、と問われれば、それは間違いなく大日本帝国陸軍銀輪部隊です。
機甲部隊が貧弱な陸軍は、機動力補強のため、南方の歩兵に自転車を与えジャングルを突っ切らせます。もちろん現在あるようなオフロード車ではなく、青物市場を走っているような頑丈第一の重い鉄の塊。兵士があまりに哀れなので取り上げることにしました。マレーシア・ジョホールバル攻略に従軍した朝日新聞特派員の筆による1942年1月28日の「敵脅かす“銀輪戦車” タイヤ揃わず金輪だけの進撃」を引用します。仮名遣いや句読点は、読みやすいようにおじさんが直しています。(前略)マレーの自転車部隊は敵前上陸直後から、まず暑さに苦しめられた。パンクがやたらに多かった。1台の自転車が1日に2回も3回もパンクする日が度々あった。貼り付けた糊が暑さに溶けるのである。レースに勝つなら戦場に合わせた装備を支度するのが戦略チームの仕事。日本仕様のチューブ糊をそのまま持ち込むのが、いかにも行き当たりばったりの皇軍らしい。
○隊(注・○は軍事秘)ごとに2名ぐらいの自転車修理班がいて、1日20台の自転車を修理する。路傍に壊れた自転車が転がっていると、使えそうなペダルとかチェーンなどを外して他日の用意に持って行く。荷物が膨大な物になっても、修理班の任務を完全に果たすためには重いなどとはいっていられない。こうしてあちらこちらからバラバラの部分品を集めた、継ぎはぎだらけの自転車が随分たくさん戦線を走っている。
急追撃戦で修理の暇のない時は、勇士たちは面倒臭いとばかりタイヤを外してしまって、金輪だけでがらがらと走った。これは以外にも舗装路では戦車のキャタピラの響きによく似ていた。早速夜襲戦に利用してわざわざ4、5台のタイヤなし自転車を先頭に敵陣を奇襲したら、敵は「戦車だ、戦車だ」とあわてて逃げたという、噓のような挿話もあった。(引用おしまい)
食料ですら現地調達(略奪)の我が帝国ですから、パーツも当然戦場で間に合わせます。タイヤなしで走ればホイールはすぐに廃品になりますが、精神力で乗り切るのが帝国流戦陣訓。マレーの英軍も敵がここまでプリミティブな軍隊だとは思ってないから、面食らったんですね。引き続き記事を引用します。
困るのはジャングルや湿地帯の戦闘である。いざ戦闘という場合、自転車を置いて前進する。百台、二百台の自転車をまとめて5、6名の監視兵が残る。重装備の歩兵になお重い自転車をかつがせ、酷暑の中、長距離ジャングルや山中を進軍。物量に勝る敵を、リスクの高い作戦と兵の犠牲をもって制する。一の谷の合戦「ひよどり越の逆落とし」ですか?用兵思想が平安時代から進歩していない。
(中略)マレーは道路がよい。だが、坦々たる舗装路を鼻歌交じりに快走することはできなかった。作戦の場合はたいがいゴム林やジャングルのなかを迂回したからである。雨のあと泥濘地帯では、泥がタイヤにくっついて車輪が回らなくなり、押しても突いても動かず、担いで歩くこともあったが、足は滑る、湿地へ落ちると泣きも笑いもできなかった。
熱地の皇軍勇士の装具の重さは8貫から10貫(注・30キロ〜40キロ弱)ぐらいあり、それを自転車の後ろに縛りつけ、銃を肩にクアラルンプールからゲマス(注・120キロぐらい、ゲマスは山岳地帯)まで夜通し30時間を走ったときには、さすがの勇士も尻が痛く、足があがらなくなったと語った。(引用おしまい)
開戦直後にして、消耗戦で雑兵を使い捨てる帝国の平民奴隷制システムが全開。日本軍の戦病死率の高さの原因は、兵站の拙さのみにあらず。こうした兵卒の「強制労働」がより多くの病人をつくり出したことは想像に難くありません。
同じアタマの連中が、やがて特攻を思いつき、女子供の竹やりが完全装備の上陸米軍を制すると、狂気を増していくのでした。