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2014/07/24

日本の官僚組織とは何か?

今から40年前の1974年、フィリピンのルバング島から、日本陸軍の小野田寛郎元少尉が日本に帰還しました。30年近く、敗戦も帝国の崩壊も知らず国体護持のために戦い続けていたわけです。ルバング島に小野田がいることは、1950年代から知られていました。それなのに、かくも帰国が遅れたのでしょう?
日本の官僚組織が、国民保護に露ほども気を遣っていなかった悪例として、1956年2月6日の朝日新聞「冷い(ママ)日本大使館 比国生き残り兵の救出に」を引用します。
【マニラで本多記者5日発】マニラ西南方80キロのルバング島にいまだ生きているとみられる元日本兵小野田、小塚両氏を救出すべく遺骨収集団ではビラ1万5千枚を用意してきたが、この救出計画をフィリピン政府に取り次ぐ役割の日本大使館がさっぱり気乗り薄なのでいまだにビラまきすらも実現していない。
大使館の担当官はビラまきの効果を疑問視し、収集団の先発隊が来てからすでに10日たっているのに、まだ国防軍にヘリコプターを借りるための打診もしていない。水曜日は半ドンだという風習をタテに係官たちはさっさとゴルフに行ってしまった。
(中略)たとえヘリコプターが借りられても大使館では、ビラまきを自分のところでやるつもりはない、と明言しており、その時になって山の中で待機している団員を呼び出すのではさらに計画が遅れることになり、自国民の救出に冷淡な大使館の態度は、収集団はもとよりマニラ在留邦人の間でも不満が高まっている。(引用おしまい)
 小野田をはじめとする軍人は、国策(戦争)ゆえに南方に送られました。実名までわかって生存が確認されていれば、全力を挙げて帰国に総力を尽くすのが国の務め。体制が変わっても、迷惑をかけた元軍人の救済に全力を尽くすのが官僚の仕事ですよね。
官僚のゴルフ大事の姿勢のおかげで、小野田の帰国は20年近く遅れてしまったのです。小野田は一人帰国しました。外務省がもっと早く本腰を入れていたら、ジャングルで死んだ同僚も一緒に日本の土を踏めたかもしれませんでした。
何度も言いますが、国家は国民から集めた富を再配分するために存在します。官僚のゴルフのフィーを払うために税金を納めているのではありません。
小野田寛郎、2014年死去。その人生のほとんどを国家に振り回されました。我が政府は戦争責任なんてまじめに負う気が無い。彼はその犠牲者です。
戦後日本が戦争をしない国であり続けてほしい。事が起きたら日本の行政は役立たずです。小野田寛郎の人生はそのアイコンでもあります。