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2016/02/07

「真田丸」第4回感想 「キャラづくりの挑戦」

信長像とドラマ
織田信長は、いかに死ぬべきか。天下布武の志半ばの英雄として散るか。それとも一揆衆を女こどもまで根切り、虐殺した悪鬼羅刹として倒れるのか。死に際には「敦盛」を歌って舞わねばならぬのか。明治時代の新聞を読むと、信長は本能寺歌謡ショーなく、弓で応戦。矢が尽きると槍を取って雑兵を突っ殺し、ついには明智方の矢野源左衛門に討ち取られた、という寓話が一般的だったようです。これはこれで、魔王・信長らしい死に方ですね。
おじさんは、血を好んだこの武将があまり好きではないのですが、映画やテレビドラマでは、その最期をいかに見せるかが腕の見せどころ。脚本家の戦国世界観が問われるといってもいいでしょう。
最近、大河ドラマ「太閤記」(1965年)の第42回「本能寺」を見る機会がありました。まったく古びていません。信長、カッコええ~。あやうくファンになるところでした。高橋幸治さんの信長、片岡孝夫(現・仁左衛門)さんの森蘭丸から、敵役の小沢重雄まで、役者の存在感がすごいのに加えて、本作がデビューの林邦史朗の舞踏を排した殺陣を、ロングで撮り続けて合戦絵巻を作り上げた吉田直哉の演出も冴えています。躍動感あふれる短いカット編集に、カメラ、照明、音声担当者たちの大奮闘。無駄話することなく淡々と語る平光淳之助アナのナレーションも良い。たかだかテレビドラマなのに、テレビ屋たちの表現への闘いぶりに、涙ぐんで終幕を迎えた自分がいました。
織田信長を典型とする歴史上の人物たちを時代劇に登場させる場合、どんな人物に仕立てあげるのか煩悶するのが脚本家の仕事です。視点なしにやれば視聴者の指弾を浴びるは必至。信長が登場、そして退場する「真田丸」第4回「挑戦」を見ましょう。
とにかく明るい幸村?
真田昌幸が信長に対面するイベントが、最大の見せ場となります。信繁も同道しますが、後に相まみえる徳川家康との初対面を果たす以外の出会いはありません。それも、運命的な演出はなく、信繁が「(家康相手に)もうちょっと下の人かと(思って話した)」なんて、目先の笑いに走ってまぜっ返してしまいました。
こんなんで大丈夫なのかな。人物造形を固めずに、「とにかく明るい幸村」で押し切って、やっと歳末近くに「安心して下さい、滅びますよ」の流れになると困ります。これは当てずっぽうで言っているのではなくて、1月3日付の日刊スポーツに掲載された堺雅人さんのインタビューが、その危ぐの根拠となっています。
「(信繁は)お兄さんが残した言葉によると、ニコニコしていて言葉が少ないと。俺に付いてこい、というタイプの武将ではなく、しんがり(部隊の最後尾)を守りながら、全体をまとめていくタイプ。大河という戦場で、僕のポジションもそれに近い。俺の芝居を見ろ、というタイプではなく、みんなのご機嫌をうかがいながら、先輩たちの芝居を楽しみながら演じる。信繁と今回の堺雅人は似ている気がします。リーダーシップがない(笑い)」(引用おしまい)
堺さんはそれでよくても、視聴者はねえ。何話目の感想で主役に触れる機会ができるものか、辛抱強く見ていくこととしましょう。
脚本家の気持ちは、主人公の扱いより家康vs.真田昌幸に向いてしまっています。後半につながるちょっとした心理戦。そこへ通りかかる明智光秀に話しかける家康が「明智殿」、答える明智は「徳川様」。このころ、光秀の実質的な所領は2百万石をゆうに越えています。家康はせいぜい70万石。大名としての格の違いもさることながら、年齢からいっても光秀の方がかなりの年かさ。こんな無礼モードでいいのか、家康?
この時点で信長を「上様」と呼ぶのも、ちょっと引っかかりますね。織田家の頭領は信忠。大名の尊称を隠居に向かって使うかな。
岩櫃では、女どもによる小山田茂誠隠匿大作戦が進行中です。地侍にしては妙に立派な門構えの屋敷に押し入る信幸ですが、優しいのか優柔不断なのか分かりかねる態度で、結局何もしません。兄貴の方も、そろそろ後の武将たる片鱗を提出してもらいたいものです。
長澤まさみさんの「仏間を男子禁制にした」という主張には、首をひねりました。常住坐臥戦場である戦国武士たちの神仏への帰依は、並大抵ではなかったはずです。仏間を女子の茶話会に占領されて立ち入れぬなど、この時代にはありえぬでしょう。納屋程度に舞台をしつらえておくべきでした。
長澤さんは、さらに視聴者が引っかかる言葉を口にします。「かかとがカサカサになっちゃって」。この時代、「カサカサ」なるオノマトペが人口に膾炙していたのでしょうか。古くは「かさかさ」を、「吾輩は猫である」「それから」に見ることができます。よって、「かさかさ」は、夏目漱石の造語、または明治以降に発生した言葉だとずっと思っていました。ましてや乾燥肌に対して使用されるようになったのは、女性化粧品の広告が日常化した戦後高度成長期以後だと考えられるのですが、400年前の女子もオッケーだったのですか?
アラ探しをしているのではありませんよ。三谷幸喜さん自身が、朝日新聞のコラム(1月28日付夕刊)で、「轍を踏む」のセリフを近代の表現だからとNGにされた旨書いていましたから。厳しい公共放送の用語チェックを通過すれば、戦国女子会では「かかとが近ごろカサカサ」の会話が交わされていたことになるではないですか。うーん、こんな安土桃山時代は嫌だ。
 草刈正雄が救った法華寺
今回のハイライトは、昌幸の法華寺信長謁見の巻。織田信忠が「我が父」と、親父の権力を傘にきてしゃべるの、やめさせてえな。とうに家督を継いでいて、甲斐攻めでは総大将ですよ。優秀な武将だったはずですが、本作ではパパの威光に頼る小物感がにじみ出てきます。「父上」を連呼していた武田勝頼といい、このドラマは二世議員みたいなアホボンを出し過ぎ。
特筆すべきは草刈正雄さんです。家康、信長とのにらみ合いがそれぞれ用意されていました。家康とは平然と事を済ませた後、信長との短い対峙が終わった途端、目を泳がせながらの狼狽と安堵の表情を浮かべました。その顔芸だけで、両者の格の違いを表現した素晴らしい演技。エルトン・ジョンの日本語版ナンバーをカン高い声で歌っていたアイドル時代を知る人間としては、こんな見事な芝居ができる俳優に成長するとは夢にも思えませなんだ。草刈さん、最高でした。
その後の安土への人質問題を議論するホームコントは、これが三谷節とはいえ、余計でしょう。場違いに勇壮な音楽とともに繰り広げられるコメディシーン。草笛光子さんの「私だって機敏ですよ」のセリフだけ笑えました。第1回でのお元気な動作を見ればわかりますよ。この人、大好きです。
ラストは本能寺の変です。炎の中、信長の鎧兜が崩れ落ちるのみの描写でした。昌幸が「思う通りの男なら」と語った信長像がいかなるものであったのか、分からず終いでしたけど、まあ妥当な演出だったと思います。物語の根幹に大きく関係しない人物が幸若舞う往生際を、延々と見せられる視聴者は、たまったものではありませんよね。
問題は、信繁をはじめとする主要人物の描き方までが浅いところ。原作にとらわれないオリジナル脚本は、自由な人物造形ができる反面、キャラクターへの責任を負います。創作劇には、観客をだます説得力がなければいけません。いにしえの武将らを単眼的に見ない、目の肥えた現代の視聴者たちを、果たして三谷幸喜さんはだましおおせることができるのか。
一つではない光秀像
今日は、歴史上の人物像は一面的ではない証左の一つとして、“裏切者”明智光秀に関する新史料が見つかったことを伝える新聞記事を紹介します。1981年2月8日付の朝日新聞日曜版「日本史の舞台 30」(中山直則記者)より引用します。
(前略)天正10年(1582)、6月13日。天王山に陣取った羽柴秀吉と戦って敗れ、本拠の坂本城へ逃れる途中、伏見のやぶで土民のヤリにかかって、横死した。京で首をさらされたうえ、もう一度はだかの胴体とつなぎ合わせて、はりつけにされた。主君織田信長を本能寺に襲って自殺させて11日目だった。
下克上の世ではあったが、あまりにもとっぴな行動は、いくつもの憶測を生むーー甲州の武田氏と早くから通じ、機会をうかがっていたのだ。妻に横恋慕した信長を許せなかったらしい。生まれついての謀反人であった、などと。徳川時代になると、太平を図る幕府の意向と儒教の影響を受けて、光秀は極悪非道で野卑な主殺しとして芝居に講談に繰り返され、歴史のカンバスに定着していく。
これら悪役説の仕掛け人が秀吉であることを示す古文書が、最近見つかった。京都・大徳寺で信長の盛大な葬儀を営んだ直後の天正10年10月25日に、秀吉が近習につづらせたもので、「総見院殿(信長のこと)追善記」という。写本は知られていたが、まごうことなき原本と鑑定され、大阪城天守閣に保存された。 「追善記」には次のように描かれている。
(信長を襲う直前の)5月28日、連歌が催されて、光秀が発句した。
「時はいま 天か下しる さ月かな」(光秀が美濃・土岐氏の一族だったのにひっかけて)今これを思えば、謀反の先兆だったーーと。
そして、京童もこう落書していると、悪いイメージの上ぬりをしている。
「しゅう(主)の首きるより早き討死は 是たう(惟任=光秀の別姓)はつ(罰)をあたるなりけり」
天下をにぎるには主を失った織田軍団を掌握する必要がある。光秀を逆臣に仕立てあげ、信長のかたきを討ったものこそが後継者であると公言し、世間に認めさせるのが、その早道だ。長さ15メートルもの巻物に、秀吉の策略が色濃くにじむ。
(中略)死後に廃棄されて、光秀の遺品は少ない。わずかに残った書状の一通が、西教寺(注・大津市の光秀の墓がある寺)にある。元亀4年(1573)5月24日の日付で、この年の2月末から3月にかけての合戦で失った18人の家来の供養を依頼している。なかに、甚四郎という中間(ちゅうげん)の名が並ぶ。武士と同等に1斗2升の寄進米をそえて手厚い法要を求めており、当時としては驚くほど部下思いだった人柄をしのばせる。
堺の豪商津田宗及らの日記類に、茶の湯を楽しみ、和歌をよむ教養人光秀の姿が、断片的にかきとめてある。(引用おしまい)
光秀がただの小心な謀反人や増上慢ではなかったことがわかります。時代劇の脚本は、賞賛や誹謗が入り交じるさまざまな史実・伝承を取捨選択して創作されるべし。「真田丸」にその支度はあったか、またその覚悟は如何。 徳川家康・真田昌幸を除けば、まだまだキャラのウスい家族、兄弟がコントとラブコメにかまける、なんちゃって群像劇に終始してきた感のある「真田丸」。お試し期間が終わりつつある2月を迎えています。
昌幸の独白「お館様(武田信玄)、わしに何を託されたのじゃ?」の答えも、まだ回収されていません。視聴者がNHKに託すのは、過去の人物像を削りに削って芯を出したシェイプが身体で語る戦国史。演出家・カメラマンが撮りたい、俳優が演じたい、そんな思いにかられる物語を、視聴者だって見たい。「太閤記」を見た後には、特に強く感じた次第です。