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2015/05/13

五・一五事件と2人の女性(1)

気づかぬうちに、このブログを始めてから1年が過ぎていました。いつまで続くかわかりませんが、今後ともよろしくお願いします。
最初はおもしろおかしい歴史の話を、備忘録を兼ねて書いていくつもりだったんですが、1年のうちに世の中が次第次第におかしくなっていくのを実感できてしまうのは、自己満足の駄文とはいえ、こんなことを続けているせいでしょうか。時々、熱くなってしまうのには、我ながら困ったものです。
ブログをスタートさせた直後の5月15日に安倍晋三首相が集団的自衛権の行使容認の検討を発表したんですよね。憲法9条あるのに、アホちゃう?とバカにしていたところ、このヨタ話が今、どんどん現実味を帯びてきています。
5月15日というと、歴史好きのみならず連想するのは五・一五事件でしょう。1932年、海軍将校らがクーデターを起こし、犬養毅首相が暗殺されました。これを契機に新聞は(当時、まだラジオはニュースメディアではありませんでした)一斉に言論萎縮し、軍部の暴走を許すことになります。日中・太平洋戦争を語る上で欠かせない歴史です。
今日は、その事件に巻き込まれた2人の女性のお話をします。
1931年12月12日、首相指名を受け帰宅した犬養を、小さな女の子が迎えました。「お爺ちゃま、お帰り遊ばせ。おめでとうございます」とあいさつした愛孫に、いつもは無愛想な犬養も相好を崩したと、当時の新聞が伝えています。それから半年も経ぬ間に、犬養は官邸でテロの毒牙にかかります。その現場にも彼女は居合わせました。犬養道子さん。後に評論家となり、現在でも高齢ながら難民支援活動に砕身しています。
戦後になっても言論に対するテロは収まらず、1960年10月12日には、社会党委員長だった浅沼稲次郎が、右翼を自称する少年山口二矢に刺殺される事件が起きました。その4日後、NHKテレビがドキュメンタリー番組「日本の素顔」を放送します。テーマは「政治テロ」。それを見た犬養さんが感想を寄稿した同月19日付の朝日新聞「これでよいかしら」から引用します。
(前略)私も五・一五関係者として祖父遭難の模様を語って、その夜の「素顔」に一役買ったわけであるが、やがて、フィルム構成は第三の段階にはいって、テロを行った人々が登場した。
(中略)異常な効果がこの辺からもり上がったが、それは昭和23年(1948年)佐賀で当時の共産党書記長徳田球一氏にダイナマイトを投げつけた古賀一郎のアップがうつるころ、頂点に達した。左派勢力打倒を願ってテロ手段に出たことのあるこの古賀は、開口一番、浅沼事件に言及して決然と言った。「よくやったと思います」ひどくドスのきいた声である。「私は山口さんにくらべれば勇気がなかったと思いますね……そう、やるとすればやはり刃物でしょうね」そしてこの恐ろしい言葉にNHK側は否定も反論も与えず、そのままフィルムは次の場面へと流れて行った。
私は驚いて思わず母の顔を見た。母は悲痛な顔をして、手を握りしめ、ため息をついた。「まあ、ひどいこと。だけど何のことだかわからない……」「ひどいこと」とは、殺人行為賞賛の言葉に向けられた批判であり「何のことだかわからない」とは、殺人法を教えている言葉を反バクもせずに流しっぱなしにしたーー言いかえれば、なまのニュース素材をそのまま流したやり方に対して向けられた疑惑である。
(中略)テレビ・ラジオに対して人々は受動的であり、しかも視聴者層は万人をモウラする。扱われた素材を解釈するだけの判断力をまだ持たない者をも多く含むのだ。そして、目や耳には、生気のない活字としてではなく、生きた声として、生きたパーソナリティとして、生きた行動としてはいって来るのだ。印象はくらべものにならず強烈である。事実、その夜の「素顔」で私の心にのこったものは、佐郷屋(注・留雄、浜口雄幸首相暗殺犯)の顔のアップであり、古賀のドスのきいた「やるなら刃物ですね」の声である。そうか、やるなら刃物かーー私はふるえた。人の生命が犬ころの生命より軽く見られる風潮の今日、好奇心に燃えた、判断力のない少年が、あの「素顔」を見たなら、彼は翌日友人にこんなことをいうかもしれない、「やっぱり刃物に限るってね」。(引用おしまい)
犬養さんの一文を引いたのは、彼女の危ぐが現在につながっていると思うがゆえです。インターネットには、殺人やテロの映像があふれかえっていますね。中にはそれらを集めて「衝撃映像!」などと扇情的なタイトルをつけて公開しているサイトもあります。世界中の人殺しの映像を、不特定多数の人間が無制限に閲覧できる現状。しょせん、これに歯止めをかけることはできません。
みんなは大人になる前に、こんな映像を見るままに頭の中で流し去るのではなく、正邪を簡単に決めてしまうことなく、その理由や背景を判断しようと考える人になってもらいたいと願います。
この項、続きます

追記:引用文中、昭和23年を「1958年」としたのは、私のパンチミスです。「1948年」に修正しました。筆者ならびに引用元にはご迷惑をおかけしました。