視聴率至上は正義か
三谷幸喜さんの朝日新聞8日付夕刊のコラム「三谷幸喜のありふれた生活」は、テレビドラマの視聴率が主題でした。視聴率なんか関係ない、質の高いものを作っていればそれでいいという意見もあるだろうが、僕はそうは思わない。少なくとも自分は、多くの人に楽しんでもらうために、ホンを書いている。だから数字は高いに越したことはない。そして視聴率が高いと、現場の士気が上がる。そこからさらに良い作品が生まれる場合もあるのだ。(引用おしまい)視聴率調査は番組広告単価の指標にすぎないのですが、スポンサーの顔色をうかがう必要がないNHKは、昔からこの数字を気にするところがヘンです。紅白歌合戦の視聴率がほんの少し目標に届かなかったせいで、山川静夫さんが司会を降ろされたこともありました。
今年の春には、貴重な報道ドキュメンタリー番組だった「クローズアップ現代」が虐殺され、そこへ軒並みバラエティ番組が降臨したおかげで全体の視聴率が上がりましたが、それが公共放送の担うと自負する放送文化とやらに益したかといえば、マイナスでしかなかろうと言わざるをえません。番組を視聴者のために作っているのか、放送センターの上層階を見上げてこしらえているのか、って話です。
テーマや物語性を放り出して「◯秒に1回のクライマックス!」なんて見せ場乱造に血道を上げる最近のアホなハリウッド映画みたいに、目先の数字ほしさに出番の終わったイケメン男優の無意味な再登場シーンをひねり出し、再び三たび劇中に投げ込んでストーリーをムチャクチャにした挙句、ネットの話題になるのはドラマじゃなくてその共演俳優同士の色恋沙汰という近ごろの朝ドラのていたらくを振り返っても、視聴率よりも番組の質が重視されるべきなのは明々白々でしょ。
じゃあ、最終盤を迎えた「真田丸」は、その観点でいうとどうなんだ、ということです。
破たんに次ぐ破たん
前回の「真田丸」(第48回)の感想執筆をやめちゃったのは、中身がひどすぎて文章が荒れるのを恐れたからです。とにかく、真田幸村が徳川家康の暗殺に走る設定でアウト。合戦における殺人を陽とするなら、暗殺という手段は、やはり陰でしかない。ドラマの主人公が陰湿な政治的手段であるアサシネーションを選択するからには、動機や背景、心理を視聴者に届ける努力がなければ、作品への茶の間の共感など発生しようがありません。家康の暗殺といえば、隆慶一郎の傑作小説「影武者徳川家康」が思い出されます。暗殺に至ったバックグラウンドが丁寧に提出されたからこそ、読者は判断を下した武将島左近や実行犯の下忍のキャラクターに入り込んで次々とページをめくることができました。それらを放棄した挙句、暗殺犯が「暗殺に成功したら結婚してくれますか」なる素っ頓狂なプロポーズまでやらかす、笑えない目先の笑いに走って大失敗したのが前回の「真田丸」でした。
1話進んだ49話。その出番に必然性どころか必要性もなくなった真田信之は「弟は死ぬ気だ」。弟は大坂冬の陣最激戦地の出丸の責任者で、騎馬での白兵戦も派手にやっていますが、ありゃ死ぬ気で戦ったんじゃなかったんか。何、眠たいこと言うてんねん。暗殺武将堺雅人さんに次いで、大泉洋さんも災難です。
旦那を死地に出すというのに「必ず生きて帰って下さい」と口走る嫁・稲の心理状態も不明。夫が窮地に陥ってでも救わねばならないと勘案するほどの幸村の人物像を、稲自身が把握しておかなきゃ成立しないシチュエーションですが、そんな交流、過去にあったっけ?
大蔵卿局にはまだ軍議であれこれ言う権限があるんですね。前週、息子から口出し厳禁を食らった大芝居がありました。本作での大野一家は豊臣家を滅亡に導く愚か者として描かれていますが、馬鹿のVTR巻き戻しみたいに、前週にカタがついた一件が蒸し返されると役者も大変です。前週の演技が無に帰します。大蔵卿局、ガンコを通り越して、他人の助言や注意を理解できない、おでんツンツン男並みのイカレポンチに見えます。本作に出演した峯村リエさんの女優としてのメリットは何だったのでしょう? スタジオパークに呼ばれて多少茶の間に顔が売れた点のみだとすると寂しいですね。
マトモな設定や人物がどんどん消えていく大坂城にあって、何の戦略もなく和議の申し出を引き破る豊臣秀頼の無能っぷりは不動です。その無能にも前提の提出がない。根拠なき無能なのです。
こないだ「豊臣を滅ぼす!」と、バストアップショットで大音声を挙げていた徳川家康も、週が変わると、再び和平交渉に傾いて息子にキレられる毎度の支離滅裂。記憶や判断力が怪しくなってきた家康の老化を描写したかったのでしょうか。この高齢者の進路逆送ぶりは、運転免許証持ってたら取り上げないといけないレベル。11日に放送された「日曜討論 どう防ぐ?高齢ドライバー事故」に事例として提出されてもおかしくない迷走でした。内野聖陽さん、どうよ?
で、またまた信之なんだけどさあ。姉に持たされたたっぷりの土産を携えて弟と面会したんでしょ。その口で「命は助けるから降伏しろ。今度もまた必ずお前を助けてみせる」と見栄を切ります。生命を担保する根拠がありません。信之と家康とのきずなは、まったく提出されておらず、生殺与奪権を握るジイさんは「真田め、真田め」と今週もおかんむり。「また助ける」ってタンカを切ったところで、関が原で真田親子の助命成ったのは、こいつじゃなくて舅の本多忠勝の熱演のおかげだと、視聴者は知っています。昨年の「花燃ゆ」に引けを取らない、書いた端から設定が壊れる、矛盾に満ちた大坂で、私たち視聴者は最終回を迎えるはめになりました。
後半はさらに目を覆わんばかりの惨状です。真っ昼間の大坂城を黒装束の忍者がウロウロしてるコントみたいな情景下、コック長が突如発狂しての殺人。裏切り者だと判明します。何なの、この唐突感? 笑かそうとしてるの? 三谷さん、新聞のコラムで「回収しない伏線は伏線ではない」なんて作劇論をぶってましたけど、ぶつ前に自分で引こうよ、伏線。
料理長のおっさん、前の回では女房・こどもを亡くしてますねん言うて、後藤又兵衛としみじみ情交してなかったか? 最終回直前だから、内通の動機なんか提出するヒマもないんでしょうね。この殺しが、例によってぺたーっとした、だれの視点だか不明なカメラワークでつまらんのですわ。火箸のアップショットからして、これが凶器ですよ、との意味しか持たせられてない。端役の割には出番が多かったお笑い芸人も、結局ロクな人格を与えられぬまま、ここで惨死しました。彼個人の芸能生活の窮状には同情しますが、ドラマ視聴者としては出演に意味を感じることができません。キャラ変台所頭出演場面のダシに使われた感じでした。
キャラ変は伊達政宗にも顕著。先日まで幸村を「愚か者ですな」とバカ呼ばわりしていた正宗が、脈絡なく主人公に感情移入して一族を引き取ります。室賀正武をはじめとする、いきなりの善人化は本作の浅薄さを表す特徴の一つ。
その正宗に妻を引き渡した幸村ときたら、日も明けぬ内に「きり」を抱く鬼畜の所業です。兄貴の方も以前、嫁に相手にされないからと、前妻を抱きに行ったひっでえシーンがありました。何様なんでしょうか、この主役兄弟。「真田丸」での女性の扱われ方は醜悪と言っていい水準でした。一般社会の道徳基準をもって視聴すると、きったねえキスシーンでしたねえ。堺雅人さんは余人に代えがたい独特の雰囲気を持っていて、40歳を過ぎたこれから大スターになれる可能性を感じます。来年に期待しましょう。
川谷拓三の「役者である喜び」
たった2話だけで、これだけの矛盾をはらんだ「真田丸」は、正当な娯楽作品として、また作り手の歴史観の奈辺に思いをはせながら、毎週マジメに鑑賞している多くの視聴者たちの方を向いていると言えるのでしょうか。三谷さん言うところの「上がった現場の士気によって作られた良い作品」なのでしょうか。上記のように台本ごとに設定や性格付けがコロコロ変わる中での芝居を求められる俳優たちにしても、視聴者同様に困惑しているのではないでしょうか。「真田丸」公式ウェブサイトに掲載されていた加藤清正役の新井浩文さんのインタビューに、実はずっと違和感を感じていました。
芝居に関しては、まず脚本ありきで、監督と相談しながら役を作っています。「清正として役を生きる」なんてことは、全くありません。役を生きるタイプの人は憧れも含めて「ちょっと格好いいな」って思いますが、役にのめり込んで、実生活から変えていくような俳優にはなれません。そもそも時代劇で「役に徹する」なら、まず髪型を変えるところから始めなければならないだろうし(笑)。例えばボクサーの役が来たら、目に見えてわかるという部分でボクサーの体型を作ることはします。けれども内面的なものは、脚本や、監督が決める事です。うちは要求された人物像をそのまま表現するのが、俳優の仕事だと思っています。(公式サイトより引用おしまい)要求された人物像をそのまま演じる。これでは人形じゃありませんか。表現者の職業である役者の言だとは、とても思えません。放送局側が俳優の意に反するインタビュー編集をしたのかと、いぶかっていましたが、こんなホンや演出が続いていたせいでクサったんじゃなかろうか、と思い至ったわけです。インタビュー自体が、俳優・新井浩文のレジスタンスだとすれば、大河ドラマも末期的です。
今日は、長い下積みから売れっ子にのし上がった川谷拓三の例から、俳優という生き物の仕事へのやりがい、喜びを紹介することで、表現の世界ひとすじに生きる人間の愚直な美しさについて考えてみます。
1986年5月16日付の読売新聞夕刊「殺されたぜ 15年に3000回 川谷拓三」(佃有記者)より引用します。年号は昭和です。
(前略)スケジュールが詰まっている。カットの合間を待っていると、役そのままのいかめしい表情で、川谷が近寄ってきた。ヤクザ映画のポスターに載った自分の名前に狂喜した川谷拓三の姿は、すべての役者に重なるでしょう。それはテレビでも同じはず。コンピューターグラフィクスに彩られた「真田丸」のオープニングに我が名を見出すうれしさを抱えていても、破たんした台本、演技に独創を求められず、かつ平板な画で顔を撮られれば、喜びも半減するのではないですか。
1メートル63と小柄だが、まゆは濃い。目は深い。鼻も高く、口は締まっている。だが、かすれ声。
「一昨日の撮影で大声出して、ノドを痛めちゃって――」
「じゃあ後日に」こう答えたとたん、ホッとしたらしい。丁髷(ちょんまげ)の顔がゆるんだ。
照れたような、哀願するような、からかわれるのを待っているような、例の「拓ぼん」である。
さらに小腰になって、「ごめんね」「悪いね」を連発する。こんなしぐさが見る者の共感と笑みをさそう。長い下積み時代に培われたのだろう。
18歳で日当280円の東映エキストラになった。美空ひばりの映画が最初で、船の帆柱にぶら下がる死体役だった。それからは、“仕出し”と呼ばれる大部屋俳優、殺され役専門。15年間に3千回も殺され続けた。
49年夏の夜、拓ぼんは妻の克子と2人で京都・三条の京劇に深夜映画を見に行った。
映画がはねた未明、廊下で次週のポスターを眺めた。ポスターはあこがれで、いつも長い間、なめるように見る。
「またや」出口近くのイスで克子があきれていた。その時、拓ぼんが黄色い声で叫んだ。
「カッチャーン!」
走り寄ると、ダボシャツのヤクザがクレーンにつるされているポスターを、彼がたたいている。
「ワシの名が出とる」
「うそー、ほんまか」
「ほら。いま死んでもいい」
(中略)京劇を出た2人は、何もしゃべらなかった。口をきいたら、ズームアップして見えた自分の名前が消えてしまいそう。幸せいっぱいの気持ちがこわれるとも思った。2人とも、涙が出っ放しになるのが恐ろしかったのだ。(引用おしまい)
公共放送が追い求めるべきは、俳優や視聴者といった人間の感情であり、民放向けの広告料金を表す数字ではありません。NHKのスポンサーは企業ではなく、視聴者という人間なんですから。