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2016/06/27

「真田丸」第25回感想 「ネットとの別離」


「ビートルズ」と「にっぽんの芸能」の差異

25日にBSプレミアムで放送した「ザ・ビートルズ・フェス!」って歌番組に、ちょっとあきれているところです。来日50周年記念ということで、芸能人がビートルズナンバーを次々と披露したんですが、これがひどいやっつけ仕事でした。
あれこれ名曲の凝ったアレンジを投げ込んで見事にビートルズへオマージュを捧げたTHE ALFEE、あえて日本語で歌い視聴者の心情をとらえた仲井戸麗市さんらの素晴らしい演奏があった一方で、「ビートルズと日本人」であるべきテーマを見誤り、その辺のトリビュートバンドの方がよほど芸能だよ、と言いたくなる、なんでお前やねん的なお粗末な歌が悪目立ちする失敗人選も複数ありました。さらには、歌っている最中の歌手の周囲でカメラをくるくる回す演出なんか、口パクじゃなくてライブだったら、集中力をブチ切る失礼極まりない愚挙です。終いには、ジョージ・ハリスンという人が書いた超有名曲の作曲クレジットを、ポール・マッカートニー&ジョン・レノンと誤記、ファンを脱力させる致命的なミスもありました。素材への愛情あふれるスタッフたちが、視聴者と自分たちを満足させるために必死に調べ、企画し、面白さを追求した結果、高度な作品を送り出していたNHKはどこへ行ってしまったんでしょう。
しかしながら他方、素晴らしい番組もあります。その前の晩にたまたまチャンネルを合わせたEテレ「にっぽんの芸能」は価値ある内容でした。三味線の名手・常磐津英寿さんの特集。時代小説に時々名前が出てくるけれど、ちゃんと聴いたことのない常磐津なる古典音楽の演奏や歌詞、「いよー」ってかけ声の意味などやさしく理解できて、歴史好きにはたまらない中身でした。この89歳のおじいちゃんが粋で、艶っぽくて、江戸の洒落者とはこんな人だな、と思わせるお人柄。司会者による亡妻に関する、お涙頂戴の品がない質問へのいなし方には、江戸っ子のケレン味なき美意識を感じました。未見の方には再放送での視聴をオススメします。
地方在住では公演に出かけることも難しい、こうした芸能や人物を全国の茶の間に届けることが、インターネットにはできないテレビの強み、テレビジョンの存在価値でしょう。大河ドラマも、テレビだからこそのコンテンツのはずです。「真田丸」第25回「別離」は、「ビートルズ」だったのか、はたまた「にっぽんの芸能」だったのか。テレビジョンの力を感じさせる出来だったのでしょうか。

本割のない大相撲

とかくあわただしいストーリーでした。死の商人ぶりが発覚した上、自分の偶像を製作した千利休が切腹して、豊臣秀吉の嫡男が死にかけているってんで真田昌幸が嫁連れで大阪にやってくる。嫁と片桐且元の薬草アチャラカコントがあって、新妻に相手にされない真田信幸は前妻を抱きに行って、信州に戻って妻と抱き合った小山田茂誠はばばさまの機嫌を伺う。石田三成と大谷吉継は、利休懲罰と嫡男死後処理に奔走。家康は家康で、このころえらい目に遭っているはずの次男結城秀康(秀吉の養子、たらい回しで他所に養子に出された)への心配は、まるで存在しないかのようにおくびにも出さずに来阪を重ねます。豊臣ファミリーはと言えば、秀長は「利休は力を持ちすぎた」と、その力を与えた兄貴殿下を非難(としか思えないセリフ)、甥っ子ときたら下働きにプロポーズです。加藤清正と福島正則のヤンキーコンビは、モミジ色づく季節にアイスバケットチャレンジまがいを始め(三成の濡れた上半身ヌードサービス付き。「江」の徳川秀忠、「花燃ゆ」の久坂玄瑞のパターン再び?)、茶々の乳母は真田信繁に説教するセリフチャンスをもらい、お姫様はここまで心の交流がなかった正妻に感情をぶちまける大泣き。ああ、忙しくて見るのしんどい。
1話まるまるキャストの顔見世に費やす意味が、テレビにとって有意義なのか。視聴者のためではない他の目的、キャストの接待のような回でした。視聴者がひいきの俳優を拝顔するためテレビに見入り、出番の多寡に一喜一憂する時代は終わりました。ネットを検索すれば、お気に入りのスターの写真や動画が山ほど見られる時代です。肖像権にうるさいと言われるジャニーズ事務所だって、youtubeをのぞけばタレントの歌い踊る姿がアホほどアップロードされています。顔を拝むだけなら、マルベル堂のブロマイドを買い求めたり、新聞の番組表を気にしたりする必要がないのが、2016年6月現在の真実。SMAPや嵐のファンならずとも、例えば好みのタイプが峯村リエさんだったら、ぶっきらぼうで取って付けたような、物語にとって不要な乳母の語りに付き合わずとも、彼女の名前を動画サイトに入力するだけで満足感を得られる。本割無しで居並ぶ幕内力士の土俵入りが延々続く大相撲、見たくないでしょ。舞台キャリアのある峯村さんには、意味を有する場面で、意味のあるセリフを語ってもらいたいのです。
女性の扱いの軽さにも気が滅入りました。新造に振られた真田信幸が前の女房を抱きに行く。低俗に過ぎます。公共放送はジェンダーに敏感だったはずですが……。
歴史テレビドラマの興味の一つは、その時代に生きた人間の生きようを現代の価値観に問うにあります。天下人ともあろう者が死にゆく我が子に「もっと良い服を着せて、おいしい物を食べさせたい」なるチープな願望を口にし、ヤンママの茶話会程度の会話でつながってきた女どもが、抱き合うだけで閉じた心を氷解させ号泣する。思いつきの場つなぎばかりではありませんか。お手盛り空間を主体性なく往来する主人公真田信繁は、さしずめ波間を浮遊する枯れ藻のごとき存在です。テレビが見せるべき力なきコンテンツを、果たして大河ドラマと呼んで良いものか。

テレビは斜陽なのか

かつて栄華を誇った映画産業をつぶしたのはテレビだというのが通説となっています。観客をテレビ劇に奪われ、動員数を減らした映画界は1971年、大手大映の倒産に直面しました。実は、そのころからテレビが映画の二の轍を踏むのではないか、と危ぐする声がありました。インターネットに視聴者を奪われ、注目度ならびに広告収入が激減する現在のテレビ環境を考える適材として紹介します。1972年4月4日付の読売新聞「豆鉄砲」より引用します。
どこにチャンネルをまわしてみても、同じ歌、同じ顔が並び、同じようなホーム・ドラマ、時代劇が演じられている。テレビの製作者は、何を考えているのだろう。このままだと映画の二の舞になるという声も聞かれる。
そんな折りも折り、映画界では大映がつぶれ、その製作再開を叫んで立ち上がった労組も、苦しい戦いを続けているという。「灯を……」と題して31日のNHKのドキュメンタリーで紹介されていた。過去に名作「羅生門」を作った誇りと自信、そしてそれを物心両面のシンボルとして「映画の灯を消すな」と彼らは訴えている。
「私は心底から映画が好きなんです」という中年の大部屋俳優さん、顔なじみの古道具屋の店先で、小道具をさがし歩いたころの生きがいを語る裏方さんなど、わかる気はするが、そこに映画の悲劇が見てとれよう。
たしかに歴史をみつめることは大切だし、伝統も重んじられなければならないが、今なお昔の栄光と遺産にしがみつき、そこから抜け出せないでいるところに問題がある。
そして、これは映画の現状報告にとどまらず、かえす刀で鋭くテレビの自己批判を行なっているように思えた。「テレビよ、お前も決して無縁じゃないのだ」というわけだ。
テレビもまた繁栄時代の夢に酔っていないだろうか。そこで積極的に時代を先どりしていくという進取の精神を見失っていまいか。このどたん場へ来て「映画とは何か」とあらためて自問している映画人たちの姿にも、不気味なほどのリアリティーがあった。(引用おしまい)
45年前に予言されたテレビの“映画の二の轍”は、にわかに現実味を帯びてきました。次第に整備されるネットの環境に目をそむけ、緻密な作劇を放棄。有名人の顔出しに安住する番組は、記事中の「進取の精神」から外れたものだと思えます。
しかし、「ビートルズ」や「真田丸」から読み取れる問題は、それだけに終わらないとも見えます。テレビだからこそやる意義、まさにテレビ屋が持っていた矜持と根性の喪失です。制作なら大河のみを問わない数々の名作ドラマ。最近は萎縮しっぱなしの報道であれば、かつて日本からポリオを根絶せんとした社会部のキャンペーン。テレビに意義を感じた面々の仕事でした。今後もテレビが生き残っていくには、失われていく大事な物を守る先人の思いの復古が急務だと主張しておきます。
常磐津英寿さんは「にっぽんの芸能」で語りました。
「日本の国の中で、日本の伝統音楽を聴くチャンスは少ない。では、日本の音楽は自分で残すより残しようがない」
残すべきものを残したいと、自分から努めるテレビマンがいなければ、このオールドメディアは映画の二の舞いとなりましょう。老三味線奏者が真理を語るプログラムの再放送は、テレビ屋も必見です。