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2016/03/26

昭和21年のプレイボール

プロ野球が開幕しました。今年はまったく気分が高揚しません。つまらない。
すべては選手による野球賭博と、試合中の金銭をかけた声出し問題がうやむやの内に片付けられて(片付いていないと思うけど)、公式戦が始まっちゃったからです。
円陣での声出し時に動いたとされるカネについて考えてみましょう。昨年の公式戦が1チーム143試合。半数の6球団がクライマックスシリーズを戦い、後ろには日本シリーズも控えています。これが数多くの球団で数年間にわたり慣習化されていたとすれば、いったいいくらになるのか。その辺のサラリーマン麻雀なんかお話にならない額の札ビラが、グラウンドを舞い散っていたことになりますね。野球機構がおおよその金額を調べて発表すれば、ファンだって事の重大性に気がついて、本気で球界の将来を心配したことでしょう。
ところが開幕してみると、テレビにしてからが、そんな事件はまるでなかったかのような実況中継。おかげで、選手が試合中に円陣を組めば「また賭けとるんちゃうか」、若い新監督が采配を振るう姿には、「お前も現役の時にやっとんたんちゃうんかい」といった雑念が、むくむくと頭をもたげてきて、ゲームに集中できません。
世界の本塁打王でありながら、後に最下位チームのヘボ監督扱いされ、移動バスに卵を投げつけられた経験を持つ王貞治さんは、「ときには嵐のような逆境が、人間を強くする」と語りました。嵐であると自覚すべき逆境を順風満帆だと大本営が情報操作し続けたら、プロ野球から王さんのごとく強い人間は二度と生まれません。
すべてがカネの問題になってしまっているのではないのか。選手もカネなら、興行を成功させたい経営側もカネ。予定通り公式戦を始め、CSこなして日本一を決めて終わらせるルーティンワークが大事ですか。オフに入ると、◯◯選手は契約更改で年俸が何%上がった、家を買った、外車を買い換えた等の話題で済ませて、年が明けると自主トレ、キャンプを流しすごします。そしてオープン戦から、またおカネが入る興行が始まります。いいのか、これで?
こんな風潮の中、ファンが本当に知りたいのは選手の野球に打ち込む姿勢です。人生です。ほとんどの一般市民にとって球遊びの一種にすぎない娯楽を職業に選び、命懸けになる意味を、私たちが少しでも理解すれば、アスリートを含む興行サイドだって身体を清潔にして、カネまみれの醜聞をさらすことはなくなるのではないでしょうか。
敗戦翌年の1946年4月、戦後初のプロ野球公式戦が開幕しました。焦土、食糧不足、荒廃した人心しか日本中になかった時代。今のような高給、名声、豪華なレストランの食事、高級外車にも縁のないころ、ただ野球をやりたいがためのみに集結した男たちがいました。今日は、その再興第1戦に臨んだ選手たちのお話をします。
同月27日、兵庫県・西宮球場に戦火を生き延びた2チームの選手たちが集いました。阪急軍(現・オリックス)ー近畿グレートリング(現・ソフトバンク)の1戦です。阪急の出場選手は上田藤夫、青田昇、野口二郎、高橋敏、下社邦男、野口明、三木久一、坂田清春、天保義夫、尾西信一。近畿からは安井亀和、宮崎仁郎、岡村俊昭、山本(鶴岡)一人、堀井数雄、丸山二三雄、桶川隆、松川博爾、長谷川治、筒井敬三がプレイしました。
当時の背景をつづった、1975年8月16日付の毎日新聞「全調査 私たちの30年 プロ野球復活」から引用します。年号は昭和です。
西宮球場の空は青く澄んでいた。午後1時4分、杉村正一郎主審(故人)が「プレーボール」と叫んだ。近畿グレートリングの投手、松川博爾は大きくワインドアップ、阪急の上田藤夫はバットを構えた。昭和21年4月27日、土曜日。プロ野球の公式戦復活第1試合。スタンドの5016人は、ああ、本当に戦争は終わったんだなあ、と思った。
「あのころチームの強弱は、実力というより“復員率”だった」と阪急監督、西村正夫(現二軍監督)はいう。他チームに比べ復員の早かった阪急は“ヘソ伝”の異名を取った山田伝外野手(未復員)を除き、ほぼベストメンバーで第1戦に臨み、快勝した。負けた近畿は、この年19勝をあげ、優勝に貢献した別所昭(改名して毅彦)がまだ姿を見せず、巨人の水原茂、三原脩、川上哲治も帰っていなかった。
西宮から間近い神戸港のポートアイランドで、貨物船のコンテナ積下ろし(ママ)作業をしている坂田清春。再開第1戦の阪急の捕手。すっかり日焼けし、髪に白いものが目立つ。「一度、派手なフットライトをあててもろたし……」と、ここ20年ほど球場へ足を運んだことはない。「会社で野球やっても、もう本塁から二塁まで投げられません。若いもんに“オッさん、目え見えとるんか”とヤジられますんや」と笑う。
食糧難時代。当時、藤井寺球場のスタンドは穀物倉庫になっており、グラウンドに袋の割れ目からこぼれた大豆が落ちていた。「試合が終わると、みんなで地面にはいつくばって拾った。合宿でたいた豆は大変うまかった」と近畿の宮崎仁郎はいまも思い出す。
阪急の高橋敏は、チームメートの尾西信一に誘われて22年、同じ鐘紡へ移り、さらに日軽金に変わって選手のあと監督。野球部の面倒を見続けてきたが、昨年、不況で野球部が解散、いま庶務課員として静岡県蒲原工場の守衛さん。開幕第1戦は四番バッターだったが「私が四番を打ったことはないはずやが……」と首をかしげた。
「あの当時、選手が少のうて投手と野手のかけもちはザラ」という近畿の右翼手、丸山二三雄は左腕投手。いまはその手に左利き用の包丁を握る(注・当時大阪・心斎橋で飲食店を経営)。彼もまた「野球はやるもので、ゼニ出して見るもんではない」と球場には足を運ばない。(引用おしまい)
空きっ腹を鳴らしながら、藤井寺球場の土から豆を拾う選手たちの姿が目に浮かびます。野球をする自由もままならぬ、戦時の狂気に翻弄された末につかんだ職業野球選手としての復権。それには富も名誉も付いてきません。当時の庶民と等しい困窮生活を顧みず、西宮球場に駆けつけた野球バカたちの情熱が記事から読み取れます。
彼らはプレイヤーとして全盛期であったはずの時間を戦争に奪われた犠牲者でもありました。毎日新聞の取材に対して「プロ野球を見に行かない」と答える心理は、複雑なものであったでしょう。野口二郎、青田昇、鶴岡一人ら一部を除き、出場者の大方は、球史に埋もれた名前ばかりです。しかし、金満主義が跋扈(ばっこ)する現在のプロ野球関係者には、彼らの名前を改めて胸に刻んでもらいたい、と切に願います。職業野球に身を置く動機が、「野球が好きだから」というプリミティブなものであって何が悪いもんか。
鶴岡一人は後に南海ホークスの監督として、「グラウンドには銭が落ちている」との言葉を残しました。カネを稼ぐために野球をやれ、という意味とは、もちろん違います。個人の努力と成果が暮らしに反映されない戦後の辛酸をなめてきた男の、豊かな時代に野球ができる後人たちへの鶴岡流の激励ではなかったのかと、今では思います。
鶴岡の言葉とともにもう一つ、王貞治さんの言を紹介しておきます。
「カネほしさに野球をやる人は、決して本物にはなれないでしょう」
球界の巨人らが発した言葉と、カネにもならぬ西宮の興行で泥にまみれた無名人たちのプレイの価値はきっと同じです。こどもも大人も、プロ野球を純粋に楽しめる日が再びやってくるのを心待ちにするとしましょう。