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2015/05/25

「花燃ゆ」第21話感想「決行の非」

安政の大獄や長州藩の攘夷転向など、「花燃ゆ」本編では詳細がまったく語られていない事項は、NHKの大河公式サイトで補足説明してくれているんですね。ひところ流行った、最後に「くわしくはwebで」のテンプレが出てくる、まるで商品説明ができていない出来の悪いテレビCMを思い出します。すでに娯楽時代劇の面白さへの期待は失せ、危険思想のみが独り歩きしている「花燃ゆ」ですが、まあ、第21回「決行の日」を見てみましょう。
小田村伊之助の手柄で、吉田松陰とその家族が復権します。身内びいきもはなはだしい。今回、小田村は藩主の奥方の付き添いという身分の低いヒロインを殿様に会わせる工作も行って、藩を私物化した、そのラスプーチンぶりを遺憾なく発揮しています。こんなヤツにだれが共感するんだ? 肝心の松下村塾は普通の寺子屋になってしまってます。革命戦士養成所として、どいつか狂った教師を置かなくていいのか? 小野為八あたりがヒマそうだから、地雷火実用教室でも開いたらよかろう。
かまぼこや蔵書の無断売却等の小銭稼ぎでやっと京へ出た元塾生どもは、高級料亭だか遊郭だかでしょっちゅうドンチャン騒ぎ。密謀だって大声でくっちゃべっています。お座敷の三味線弾きが隣で聴いていようがお構いなし。過激派にしては、相変わらず情報管理が甘いですね。
理由もわからず総髪になった桂小五郎。このわけも公式サイトで説明してくれるのでしょうか? この席でおぞましき現代語会話が繰り広げられます。高杉「今のままじゃ」、桂「ちゃんちゃらおかしい」、周布政之助「とことん」。とどめは高杉の「ヌルい」でした。「生ぬるい」「手ぬるい」ぐらいなら、まだ許せますが、ネット発達以降に広まったと思われる省略語「ヌルい」を時代劇のキャラが発する違和感は相当なものです。
高杉の出家情報が、さっそく野次馬一家にもたらされると、以前は耳と口が不自由で手話に頼っていたヒロインの弟が、高杉のことだと瞬時に反応しました。先週から聴覚完全復活。安易な設定変更はやめていただきたい。実際に障害を持っている人たちに失礼だからね。高杉の符号が三味線を弾くポーズってのもどうよ? 視聴者は、高杉がちゃんと三味線を弾いてみせる場面を体験していないので、何のことだかわかりません。「高杉さんが?」なる姑息なテロップ、やめれ。演出の思考放棄です。
よせばいいのに高杉家を訪ねる文。度重なるこのような行為が、視聴者にますますヒロインを嫌わせる要素なのですが、このくらいやらせておかないと、今回もこの女はグチを言うだけの無能な茶の間の嫌われ者で終了です。逆効果のような気もしますけどね。
手を挙げる、「8時だヨ! 全員集合」のいかりや長介がやってたオッスアクションで文を迎える高杉の嫁。このドラマに「時代劇の所作」なんて求めるのは愚の骨頂です。久坂が公卿への根回しを任されていることに憤る高杉。久坂、いつの間に出世した? 公卿なんて、武士でもない身分の低い草莽がそうそう会える格式の人間ではございませんよ。その辺の経緯も、ぜひ公式サイトで説明してほしい。
その久坂は、いくさ支度で二条城へ押しかけます。だからさあ、この辺のお話を整理しておかないと、久坂が皇室工作員だか武闘派の鉄砲玉だかわからない支離滅裂な人物になっちゃうんですよ。これも公式サイトで(以下略)。
東出昌大さんは元々の滑舌が悪い役者です。しかし、今回はさらに随所で声が荒れていました。叫ぶと言葉が完全に不明瞭です。下関でのアジ演説では「我らが◎▼※この国を、我らがこの国を◯※▲」。ふじこりまくりで劇の体をなしていません。この場でめでたく光明寺党も結成されたわけですが、一般視聴者は光明寺党について、いつ教えてもらえるのでしょうか? まさか、くわしくは公式サイトで(略)。
さて、長州藩を我が物顔で跳梁跋扈する小田村伊之助は、コネを駆使してヒロインを山口に連れ出します。そこにいた殿様の正室が、またイタいおばはんでした。「いくさはいつ終わるんです?」。戦争始まってたん? 知らんぞ、知らん。何のいくさだ? どうもこの人、攘夷と戦争を混同しているようです。攘夷は戦争ではなく、テロです。そのあたり、はっきり線引きをしておかないと、ニューヨークのテロの時に、「これは戦争だ」と舞い上がってイラクに進軍したどっかの国民と同じ悲劇を味わうことになりかねません。次の機会があれば、自衛隊も前線に行くことになりそうな雲行きです。奥方、判断力を磨かれよ。
小田村による杉ファミリー擁護工作で、文は殿様と対面。大河ドラマ史上最大の問題シーンとして記憶されるかもしれないので、チェックしておきます。
毛利公は言います。「この国が外国の属国にならぬよう、天子様自らが天下に勅を下されて、外夷討伐の正論を堂々、確立されたい」。やがて「この国」は天皇の名のもとに日清・日露戦争を戦って朝鮮半島を得て、さらには満州を足がかりに中国大陸を侵し、インドシナもゲット。「外夷討伐の志」をもって鬼畜米英に挑み、ついには最近話題のポツダム宣言を受け入れました。
殿様のセリフは続きます。「外夷には決して屈せず。じゃが、無いものは得る」。これは富国強兵のことですね。明治を起点に1945年8月15日まで日本が推し進めてきた国策を、現在も無批判に賞賛して良いものか、NHKは考慮しなかったのでしょうか。
考慮しなかったんですね。だって、毛利敬親の言葉はさらに続きます。「志ある者の邪魔立てだけはすまいと決めておる。なぜなら、だれしもその命ついえる刹那、生き切った、そう思うてほしいからじゃ」。満州事変、五・一五事件、二・二六事件の首謀者たちにも彼らなりの「志」はあった。東条英機にもあったし、部下に降伏を許さず全滅突撃を命じた戦場の司令官にもありました。日本に原爆を落とす命令を下したトルーマン米大統領の志もあれば、いきなり日本に宣戦布告して大陸で暴虐の限りを尽くしたソ連のスターリンにしても、彼なりの「志」で動いた。本作で最優先される「志」という言葉の軽さが露呈しています。
さらにさらに、追い打ちをかける毛利の殿様。「行け、輝け」。戦争地域への派遣が問題となっている自衛官に向かって語りかけているのでしょうか。70年前の特攻隊員も似たような理屈で散っていったんですよ。
さっそく感化されたヒロインは、久方ぶりの対面を果たした夫に、「無事を願わない。帰りを待たない。あなたという夫を持ったことを誇りに思う」と言い放ちます。これから出撃する自衛官の妻の心得ですか? 女性視聴者狙いのドラマらしいですが、これでは女性は離れていくばかりでしょう。来週の予告では、銃後の妻たちが防空訓練のバケツリレーまがいの行動をかましていました。何なんだろう、このドラマのテーマ? 実に不気味です。
ちなみに終盤、長州藩がフランス船を攻撃しましたが、実際に砲撃したのは米国船です。この変更の意図がつかめません。山口県出身者はアメリカ様に決して弓を引きませぬ、というポリティカルメッセージなのでしょうか? それとも、米国船には、「まさに紛争国(清国)から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、こどもたち」が乗船している可能性があるから、集団的自衛権の観点から標的として不適正だと判断されたのでしょうか?
生ヌルく、生臭くもある「花燃ゆ」。こんな懸念が見どころとは、つくづく困った代物です。
脚本がどうしようもない本作ですが、演出の方も「尺が埋まるだけの画を取ればいいや」という感じの、雑な「志」のなさが目立ちます。「シナリオがアレだから」と、投げ出さずに試行錯誤するのがプロではないのか。今日は、NHKのドラマ演出家として名を馳せた深町幸男のインタビューを取り上げます。1986年5月10日付の読売新聞夕刊「この人」から引用します。
NHKの「ドラマ人間模様」で、「夢千代日記」「事件」「あ・うん」などの秀作を手がけてきた。この3つはいずれもシリーズ化されたことから“続編ディレクター”の異名をとる。
(中略)深町演出は、せりふとせりふの間をつなぐ独特のカット割りで定評がある。例えば、今年1−2月に放送された「シャツの店」の一場面。家を出た妻(八千草薫)が夫(鶴田浩二)の生活ぶりをうかがいに来る。夫はお茶を飲もうとするが、ポットにはお湯がなく、妻がコンロにやかんをかける。そのうち口げんかになり、裏口から飛び出してゆく妻の後ろ姿に、火にかけたやかんのカットがさりげなく挿入される。山田太一の脚本では、せりふだけの部分だ。
言葉とは裏腹に、2人のしぐさがそれぞれの本当の思いを語っている。そして、湯気を立てているやかんはぬくもりを感じさせ、余韻となって残る。人間の心のひだをのぞき込むような鋭い観察眼、上巻のこもる繊細な手法が十分に発揮されていた。
「映像のための映像ではない。あくまでもドラマに人間の息づかいや、その場の空気の流れを通わせるため。脚本では一行の間合いに、広がりを持たせたいんです」
また、「俳優が一緒に仕事をしたがる演出家」としても知られる。「シャツの店」では鶴田が昔気質(かたぎ)の職人をユーモラスに好演し、評判になった。
(中略)「とかくオーバーな演技に走りがちなところを抑える。自分の演出プランを押し付けるのは嫌で、そちらで考えてみて下さい、と言う。俳優さんたちがやりやすいように追い込んでいく、ということでしょうか」
この看板ディレクターも、順風満帆で来たわけではない。早大を出て、新東宝で助監督生活を8年。新東宝がつぶれNHK入りしたのは、33歳の時だ。「1台のカメラ(映画)から4台(テレビ)への切り替えに、長いこと苦しんだ。死んだ方が楽と思いつめたりもした」と苦笑する。
「ごく普通の人間が寂しさや悲しみを抱えながら精一杯生きる姿、そのおかしみを低い位置から見つめたい」との演出哲学は、回り道をした体験と無縁ではないだろう。(引用おしまい)
演出家には、その職種ならではの思いがあるはずです。「志」だって持っていますよね。「花燃ゆ」の脚本家と山田太一さんを比べるのは、山田さんにはなはだ失礼ではありますが、ディレクターに創作の余地と権限がある限り、くっだらない脚本相手でも己が創作意欲をフル回転させてもらいたいものです。深町の言う「ごく普通の人間が寂しさや悲しみを抱えながら精一杯生きる姿、そのおかしみを低い位置から見つめたい」との一言を、制作現場は重く受け止めるべきでしょう。行け、輝け。
「普通の人間」がいない「花燃ゆ」、「寂しさや悲しみを抱えながら精一杯生きる姿」が皆無の「花燃ゆ」。そしてもっとも深刻なのは、その視点が、深町の基準であった「低い位置」ではなく、かつての戦争指導者や現在の権力者に近い高みにあり、おそらく制作サイドがそれに気づいていないというところなのでしょう。