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2015/02/05

陸軍特攻「石腸隊」のナゾ

70年前の今日は、クリミア半島に米・英・ソ連各国の首脳が集まり、第二次世界大戦終結後の世界の動かし方についての話し合いを始めた、ヤルタ会談の日です(現地時間2月4日)。
戦勝を確信した連合国が、ポリティカルな関心を戦争自体から国際政治にシフトしつつあったこの時期、我が国は何をやっていたのか。こともあろうか、陸海全軍の特攻化を検討していました。
資源に乏しい国の軍隊が、圧倒的な物量を誇る連合軍相手に、「一人一殺」なんて昔の血盟団もどきの戦略を、大マジメに話し合っていたのですから、とんだデイ・ドリーム・ビリーバーズです。そして、その白日夢を実行します。
当の特攻隊員たちは、どんな気持ちだったのでしょう? 犬死にしていく自分らの後塵にも、次々と特攻で散ってほしかったのでしょうか?
そんなはずはありません。命の軽重を身をもって知る彼らは、俺たちで終わりにしてくれ、と願っていたのではないでしょうか。日本人ですもの。
ところが、そんな思いをブチ壊すエピソードがありました。出撃直前の特攻隊が有り金全てを、飛行機製造のために寄付したというのです。
19441211日付の朝日新聞「征く身に思う後続の翼」から引用します。
【比島前線基地にて大畑、川崎両特派員9日発】特別攻撃隊石腸隊員出動を前にして、富永(恭次)比島方面航空部隊指揮官は、高石(邦雄)隊長以下隊員を招いて訓示した。
「大丈夫一人、真に大義のために死を決すれば国動くと聞く。諸子は年は若いが大丈夫である。その崇高なる、その絶美なる、ただ間隙と感謝あるのみ。大丈夫の心腸は鉄石のごとしといわれる。石腸隊の名前もここに由来している」とて「不動の石腸、皇国を靖んぜんとす。崇高紙のごとき将士の姿、一身は軽けれども大任は重し。死を恐れず、また死を求むるなかれ」の詩を朗誦したのち、諄々と慈父のごとく諭し、終わって富永中将は進み出て、隊員人一人に「石腸」と自書した明治神宮のお守り入りの白鉢巻きを手渡し、自分で一人一人に酒をついでまわって、最後に高石隊長に「ついでくれ」と盃代わりのコーヒー茶碗を差し出した。感激にふるえる手で隊長が酒をつぎ終わると乾杯、一人ずつ固い握手をかわし、指揮官と決死の隊員とは、無言のうちにお互いの眼をきっと見合った。
「御訓示にもとづき必ずや御期待にそう戦果をあげんことを誓います」と答辞を述べる高石隊長の声は感動にふるえ、隊員は決意に口を真一文字に結んでいた。
その直前、だれが言い始めるともなく「オイ、俺たちは出撃までもう買う品物とてないし、第一立派な戦死を心がける身体に金なんか一銭だっていりやせんじゃないか。献金しよう。わずかでもそれだけ飛行機がたくさん造れるのだ」の動議を持ち出せば、常日頃航空機増産の必要が歯がゆいばかり骨身に徹している人々だけに、みんな躍り上がって賛成。もらったばかりの俸給、所有金のありったけを集めてみると、たちまち261868銭にも達した。
「体が軽くなってすっとした。愉快愉快」
腹の底から揺りあげる豪傑笑いがどっと渦巻く……。この貴い献金は、高石隊長が富永将軍の訓示に引き続き直接差し出したが、生ける軍神とも称えるべき若鷲たちのあまりにうるわしい申し出に、さすがの猛将富永中将も感極まって言葉さえ出ず、ただ黙ってギュッと高石隊長の両手を握りしめるばかりだった。無言のまま交わす将軍と青年将校の瞳は、米鬼撃滅の決意に燃えてたぎっていたのである。(引用おしまい)
数あるフィリピンの特攻隊の中の一つ、石腸隊のお話ですが、非常にうさんくさい。強制、または談合のニオイがします。
疑惑その1:司令官が冨永恭次。冨永はバカぞろいの陸軍の中でもワーストレベルの凡愚の将軍として有名です。東条英機の威光をカサに出世。東条が失脚、フィリピンに左遷されると現地で特攻を推進した挙げ句、戦況が悪化したら戦場に部下を置いてけぼりにしたまま、軍令を無視して台湾に逃げ出した人間です。こいつが本土への点数稼ぎに石腸隊を利用した可能性があります。
疑惑その2:朝日新聞が報道。当時の特派員間には、特攻隊員の美談競争がありました。同じフィリピンの陸軍特攻隊「万朶隊」の出動を控え、毎日新聞がいい話をこしらえようと画策した話も読んだことがあります。死んだ特攻隊員を「神鷲」と賞賛、戦場美談を作るために陸軍と癒着していた朝日新聞が、無理やり隊員を説得したことも考えられます。「だれが言い始めるともなく」なる文章が不自然。だれが言ったのかを記録するのがプロの特派員でしょ。
うーん、半藤一利さんのように歴史探偵を気取るには、あまりにズサンな推理ですね。とはいえ、石腸隊の最晩節を汚すことになる、この振る舞いには、何とも不自然な外部の力が働いたと思わざるを得ないのです。