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2014/11/11

宮崎駿監督の父親とは

アニメーション映画の宮崎駿監督が米国アカデミー賞の名誉賞を受賞しました。この賞の位置付けに対する知識がないのですが、メディアが大きく取り上げているからには、相当な権威なのでしょう。まずはおめでたいことです。
個人的には、宮崎作品には好悪の差があり過ぎて、手放しに名監督とは呼びたくないのですが、自身がかかわった爪痕というか、跡形というか、そんな感じを必ず自作に残すというのは、やっぱり職人なんでしょう。ほめ言葉ですよ。芸術は時に退屈ですから。
宮崎駿という人間を育てた父親がどんな人だったのか、興味がわいたので調べてみました。1995年9月4日付の朝日新聞「おやじの背中」から引用します。
戦争に行きたくないと公言し、しかも、戦争で儲けた男。矛盾が平気で同居している。おやじは、そういう男でした。
おやじの話だと、僕の兄が生まれたばかりの昭和14、5年ごろ、親父は軍隊にいた。大陸に行く直前、上官から「行きたくないやつは申し出ろ」と言われた。多分、部隊の士気を鼓舞するために、わざと言ったのでしょう。
ところが、おやじは本気で申し出た。「妻と赤ん坊がいるので、戦地に行くわけにはいきません」と。当時としては考えられない。かわいがってくれた軍曹から「何という不忠者だ」と2時間泣かれたそうです。
結局、内地に残された。それで僕が生まれたというわけで、その点に関しては、感謝しています。
太平洋戦争中は、栃木県で「宮崎飛行機」の工場長をして、軍用機の部品をつくっていた。未熟練工もかき集めて大量生産し、不良品もいっぱいあった。でも、関係者に金をつかませれば通った、と話していた。
軍需産業の一翼を担ったことについても、不良品をつくったことについても、戦後になって罪の意識は何もなかったですね。要するに、戦争なんて、バカがやることだ。でも、どうせやるなら金儲けしちゃえ、と。大義名分とか、国家の運命とかには全く関心がない。一家がどう生きていくか、それだけだった。
軟派でした。高校生のころの僕に「もう、たばこを吸ったか。おれがおまえのころは、芸者買いまでやったぞ」といったくらいです。母が死んだ後、いろいろ武勇伝を話していた。「女遊びのこつはなあ、愛想をつかされるようにもっていくことだ」なんてね。70歳を過ぎても、キャバレーに行っていた。
2年前におやじが死んだ時、集まったみんなで「立派なことは一回も言わない人だったねえ」って。心残りといえば、おやじとまじめに事を論じたことがない。若いころから、おやじを反面教師だと思っていました。でも、どうも僕は似ていますね。おやじのアナーキーな気分や、矛盾を抱えて平気なところなんか、受け継いでいる。
それと、最近感じるのですが、戦時中といっても、おやじのようにいい加減にやった人が、実は結構いるのではないか。「軍国主義」という言葉ではくくりきれない、下々のリアリズムが相当あって、灰色一色のヒステリックな時代は戦争末期だけだったのではないでしょうか。(引用おしまい)
冷めた諧謔とともに語られる父親像。お父さんは飛行機関連の仕事をしていたのですね。宮崎監督のメカ好き、飛行機への興味に、何がしかの影響を与えたのでしょうか。
この記事を読んで、おじさんはこれまでの自分の父親との付き合い方について考え込んでしまいました。監督とは世代こそ違いますが、おじさんも、戦中派の父親を反面教師だと思っていた時期が長くて、まともに議論をした記憶がありません。お父さんが血気盛んなうちに議論を闘わせることができるのは幸せですよ。相手がトシを取ると、一方的な攻撃になっちゃいかねない。抽象的な言い方になりますが、年齢を重ねるほどに、自分が親父に似ていることに気づくのも同様。
長編最終作と言われている「風立ちぬ」には、反戦思想がないとの批判もあります。しかし、それを控えた作風に、宮崎監督のバックグラウンドが見てとれると思うのは、うがち過ぎでしょうか?
主人公の堀越二郎は、一介のヒコーキ屋です。戦争指導者ではありませんでした。「『軍国主義』という言葉ではくくりきれない、下々のリアリズム」を、父親の一生に重ねた作品が引退作になったのかもしれません。