かよ:世の中を渡っていくには、それぞれ割り当てられた苦労をしなきゃいけないって最近よく思うの。
花子:ヤザワみたい。
かよ:ヤザワ?
花子:「成りあがり」に出てくるの。矢沢永吉はビッグに育つのよ。それを決心した時、ヤザワはこう言うの。「人間ていうのは、必ずドアを叩かなきゃいけない時がくるのよ。その時、叩くって勇気いるよね」。「ついに番が来た」という意味よ。
かよ:そう、ついに私の番が来たの。私、ビッグになるわ。ヨロシク!
最終週に来ても、「花子とアン」はホントひどいですね。「マリラみたい」ってセリフ、何よ。当時の日本で村岡花子しか知らない「アン」の話を、当の村岡花子が引っ張り出して、辺り構わず口走るんだ。気持ち悪い主人公。
「マリラ」は矢沢永吉にもなるし、シェイクスピアにもできる(「マクベス」楽しんでやる苦労は苦痛を癒す)。夏目漱石だって使える(「草枕」智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ)。何だって、だれだって挿入できますよ。ここに来て、これまで散々スルーしてきた「赤毛のアン」の我田引水エピのための孤児エピ。エピありきのエピソードってのを、プロがやるかなあ。
まあまあ、この我慢もあと数日。曲がり角の先にある「マッサン」はきっと良いものだわ。
「花子」の前の、何だっけ? ああ、「ごちそうさん」か。連発される朝ドラの駄作群。日本のテレビドラマの脚本はどうなっておるのだ、と呆れていたら、どうやら映画業界の方もひどいらしいのです。
日付は失念しましたが、今月初めの日本経済新聞夕刊に脚本家荒井晴彦さんのインタビューがありました。以下に要約します。
脚本の軽視、脚本家の軽視は前からあったが、今や当たり前になってしまった。広告やチラシから脚本家の名前が消えている。
今の脚本家はそれぞれの意見を整理し取り込むだけで精いっぱい。自分の主張をこめたら、お呼びがかからない。
昔から脚本は建築の設計に例えられた。しかし、建築は設計した人の作品だが、映画は監督の作品と言われる。「仁義なき戦い」の脚本家、笠原和夫さんは軍隊流に「脚本家は参謀だ」と言った。監督は現地部隊の指揮官だと。
脚本の領分は「何を」だ。テーマであったり、そのテーマをどうストーリーに落とし込むか。それを考えるのが脚本家だ。監督の領分は「どう」それを撮るかだ。
脚本家は監督のために脚本を書くのではない。よい映画を作るために書く。その点でプロデューサーも脚本家も監督も同列だ。
小説を書く、脚本を書く、映画を撮る。どれも余計なことだ。人はパンのみにて生きるにあらずという生き方を選ぶのが表現者だ。表現とは何かを考えず、撮りたいから撮るという世代には違和感がある。(以上抜粋)
脚本家の地位が低い日本では、今後ロクな作品が生まれないということですね。これでは個々人の経済的保証も難しいでしょう。この傾向は大正時代から存在していたようです。1922年12月、芝居の検閲、観劇料の値下げをめぐり、警視庁と帝国劇場、脚本家らが会談を持ちました。同月9日の東京朝日新聞「俳優は自動車だが文士は家も持たない」から引用します。仮名遣い等、おじさんが現代風に直しています。
(前略)帝劇の山本専務は「世間では帝劇は暴利をむさぼっているように言いはやされるが、それは心外だ」と数字を並べて観覧税が高いから減額してほしいこと、脚本が高いとまくしたてる。それまで黙っていた菊池寛氏が立ち上がって「いろいろ議論があるようだが、僕は要するに現在の劇壇を根本的に改造しなければ、こんな会合を百回繰り返しても無益だと思う。山本専務は幾千とある俳優の代表的な6、7人が自動車を乗り回す生活は、俳優の生活からいって当然だと言われるが、我々文士は代表的な6、7人が自動車を持つどころか、住宅も持っていない。劇壇のいろいろの弊害は、俳優の給料の高いことが第一だ。これには僕は警察権の発動を要求する。そしてそれが限定さるれば、自ずから弊害は除かれる」と一矢を放ち、なお尽きない議論は、総監から委員を委嘱してさらに研究することとなり、7時散会。(引用おしまい)菊池寛ですら、演劇の脚本書きでは飯が食えなかったのです。何たる不条理。
脚本と作家を軽視する日本の芸能風土は、これまで幾多の才能の芽を摘み、テーマをないがしろにしてきたのでしょうか。その毒が蔓延した結果、公共放送すら作家の名前のみを頼り、朝から「ごちそうさん」や「花子とアン」を垂れ流し続けて、恬として恥じない精神を醸成してしまったのは悲劇です。
そういえば「マッサン」はお酒の醸造家のお話ですね。ウィスキーはどんどん造っていただくとしても、妙な感じに醸成された空気や精神は持ち込まないでもらいたい。酒がまずくなるドラマはもうこりごり。