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2014/07/17

無謀自転車と民主主義

みんな、楽しい自転車ライフを送っていますか?
結構なスピードで歩行者の間をすり抜けていく自転車がいまだに多くて、おじさんは怖い思いをすることがままあります。中にはベルを鳴らして歩いている人をどかそうとする不届き者さえいる始末。
そんな奴らはじゃんじゃん取り締まっちゃえ、という声も聞きます。一聴、もっともですが、果たしてそれが根本的な解決策なのか。今日は百年ほど前の大正時代、1919年3月5日の東京朝日新聞の投稿欄「鉄箒」から、自転車の歩道走行問題を考えてみます。以下に引用します。
銀座界隈、殊(こと)にこの朝日新聞の近辺では、自転車や人力車を歩道に乗り入れることがほとんど公然と行われている。甚だしいのになると、後ろからベルを鳴らして傲然と前なる忠君愛国者に道を譲らせて行くのがある。所管警察署ではこれを知らないのだろうか。知っていながら黙過しているのだろうか。前者としたら迂闊であって、後者ならば無能である、と僕は決して言わない。
もし人民の方では免れて恥なしと考えていたら、もし警察の方ではどこまでも人民なるものをすべて刑事被告人のように心得ていたら、そしてもし双方が協力どころか睨み合い(にらみあい)ばかりしていたら、おそらく、半丁(注・約50メートル)おきに交通巡査を立たせておく位にしなければ、この自転車の歩道乗り入れは跡を絶つまい。迂闊でも無能でも何でもない。
しかし、もし力の及ばざるを無能というなら、無能は築地警察署ばかりでない、警視庁も無能なり、政府も無能である。人民の戮力(りくりょく、注・力を合わせること)を無視して唯権柄づくの取り締まりで万事を律しようとする時、すべての警察、すべての政府、いずれかが無能を嘆ぜざらんやである。
人民に自制心が出来て、共同生活の意義が分かって、政府と人民とは協力互助すべきものと悟って来たら、警察の指図を待つ迄もなく、自転車は自然に車道ばかりを通るようになる。デモクラシーというは即ちこれだ。
デモクラシーを危かるものは、歩道に自転車を乗り入るることの更に一層危ないものなる事を知らぬ徒である。(引用おしまい)
乱暴者はいつの世にも一定数存在するのですね。投稿者は取り締まりに触れていますが、あちこちで交通捜査官が眼を光らせる、およそバカバカしい 権力の介入にはクギを刺しています。ほっとくとやりたい放題やりやがるのが公権力。公共ルールの順守は本来、市民の手に委ねられるべきものです。
行政の過度の口出しを嫌う大正デモクラシーには、市民モラルの向上意識が伴っていたことがよくわかる一文です。自転車を歩道に乗り上げる行為一つの先に、おかしな取り締まりや厳罰化が待っているかもしれません。ルールを守って市民生活を守ろうね。