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2014/06/29

銅像をも差別した醜い国ニッポン

戦前の日本が制定した駄法愚法は数あれど、金属類回収令こそは、そのバカバカしさにおいて記憶されるべき駄法の代表だと言えるでしょう。
元々資源に乏しい日本は、中国との戦争だけでも武器の生産はいっぱいいっぱい。米国からクズ鉄を買ってせっせと飛行機や戦車を造っていましたが、それも禁輸にされて、国内のお寺の鐘や銅像、門柱、果ては万年筆のペン先からアルミ硬貨まで国民に献納させてなお戦線を拡大しようとした、狂気にまみれた法律です。
1941年10月28日の朝日新聞によると、日本郵船など船舶会社に、船の煙突を減らして1本は献納しろ、などとめちゃくちゃなことを言っています。その日の銅像にも動員令」の記事を以下に引用します。

(前略)既に関西方面では国民学校の校庭にある二宮尊徳の銅像が問題に上り、内務相でも個人所有のものは別として公共団体所有のものは原則として回収すべき旨の通達を出したが、このほか社長や校長先生の銅像あるひは戦利品の大砲、ハチ公の銅像なども事情の許す限り回収する方針で調査を進めてゐる。勿論これらの銅像類は指定物件の中には入つてゐないので金属回収令によつて回収を強制することは出来ないが、たとえば二宮尊徳なら瀬戸物で代用するなど適宜の方法を講じて供出方を勧奨する方針。(引用おしまい)

まだ米英開戦前。本気で戦争に勝つつもりだったのでしょうか?戦時下には二宮尊徳のような学問熱心が増えると政府は困ります。変な知恵をつけられて、反戦平和などと言い出されたらかなわない。皆にバカのままでいてほしいので、読書に励む二宮像は早めに回収したのかもね。
もちろん全国の金次郎さんが銃砲弾になったところで、アメリカの物量には追いつきません。徳川家康も大阪夏の陣以来の戦に臨みます。1943年3月31日同紙「いざ米英撃滅へ 家康と道灌出陣」から引用します。

(前略)太田道灌と徳川家康とが揃つて自発的に”応召”した…丸の内の府庁(注・東京府)表玄関の階段に立つて永らく市民に親しまれてゐた等身大の道灌、家康の両銅像が30日撤去され、全国的に澎湃(ほうはい)たる銅像出陣の仲間入りをしたのだ。(後略、引用おしまい)

家康と太田道灌が、「いざ来いニミッツ、マッカーサー」とばかりに太平洋に出馬。もしくは大陸で中国兵と矛を交えたかもしれません。これを兵器に仕立てる軍、持ちあげる新聞。大日本帝国がいかに正気を失っていたか、よくわかりますね。
しかしながら、この極端な金属不足下にあっても、戦意高揚目的で建てられた大陸の英雄肉弾三勇士や日露戦争の「軍神」広瀬中佐の銅像は撤去されませんでした。
これらは終戦後間もなく街頭から消えていきます。忠犬ハチ公も渋谷に帰ってきました。
戦時下では銅像すら差別されます。軍隊の階級はじめ差別構造なくして成立しないのが戦争です。おじさんたちが戦争を嫌うのは、その構造が当たり前の日常として消化されてしまうからでもあります。