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2016/04/13

「クローズアップ現代」への弔辞

国谷裕子、最高のアンカーマン

ここに「クローズアップ現代」の電脳空間お別れの会を執り行います。僭越ではありますが、視聴者を代表して弔辞を述べさせていただきます。
23歳に届かんかという若さでのクロ現の急逝を、悼んでも悼みきれません。似たような名前の番組が最近、放送時刻を遅らせて始まりましたが、専門的な問題点を深く理解しようもない交代制のアナウンサーたちが台本に沿って時間を費やすだけの、ニュース解説にすらならぬニュース紹介プログラムに、放送する意義や文化的意味を感じることができません。常に視聴者への社会問題提起を試み、時には公共放送ならではの予算と時間をかけた優秀なドキュメンタリー番組であったクロ現の不在を、なおさら痛感します。
国谷裕子さん、あなたは最高のアンカーマンでした。報道番組のアンカーマンとは、取材現場から持ち寄られたニュース素材を提供する際の総まとめ役ですが、あなたが最高であったゆえんは、その真摯な姿勢にありました。
あなたは終始一貫、視聴者の視点でテーマを語り、疑問を呈し、その疑問を視聴者とともに解こうと努めてきました。情報の届け役が受け手の側に立つ。簡単なことではなかったですよね。あなたがいつも自身の立ち位置を視聴者の側に置こうとした努力を、私たちは知っています。新銀行東京の経営問題時の石原慎太郎都知事(当時)、集団的自衛権についての菅義偉官房長官とのやり取りは、逐一国民の関心や問題意識そのものでありました。政治・経済・国際・社会から芸能までの広範なニュースをカバーしつつ、茶の間にわかりやすく送り出す工夫を怠らず、さらには視聴者に自分たちの頭で考えさせる余地を作っていました。もう一度言います。国谷さん、あなたは最高でした。今後も変わらぬあなたらしいご活躍を、心より、心より願います。
この度のクロ現の死は、国谷さんの退場以上に、深刻な養虎の患い(うれい)をはらんでいます。NHKが育んできたドキュメンタリー手法の壊死、崩壊、自死、惨殺。どの言葉を使っても構いませんが、少なくとも一時的に、あるいは恒久的に、その伝統が放送局から途絶えてしまいます。
日本初のテレビドキュメンタリーは、1957年に始まったNHKの「日本の素顔」だと言われています。TBSの演出家だった今野勉氏は「テレビ作家たちの50年」(NHK出版刊)で、その重要性について言及しています。同書から引用します。
「日本の素顔」のディレクターの一人であった吉田直哉は、58年、それまでの「記録映画」が、制作者のイデオロギーやメッセージを説得するために恣意的に映像を選択したり編集したりしていることを斥け(しりぞけ)、現実そのものに向き合って自ら仮説を立てて思考する過程を記録することを「日本の素顔」の方法とする、と宣言したのである。
日本におけるテレビ・ドキュメンタリーが、硬直した既成のメディアの方法からの自立と、新しい自らのメディアの可能性への革新から始まったことは、その後のテレビ・ドキュメンタリーにとって幸いなことであった。(引用おしまい)
現実に向き合い、立てた仮説から思考する。能動的に考えを進めることが、放送ジャーナリズムの根幹だと説明されています。主観を排し、何でもかんでも両論併記するのが不偏不党だと経営者が勘違いしている放送局ではドキュメンタリーは作れない、ジャーナリズムは立脚しない、という意味であります。放送局のジャーナリズムが死んだ日、それがクロ現最終回放送日として長らくと記憶されるべきではありませんが、視聴者の憂慮はいつか報道現場に届くのでしょうか。

ベテラン報道カメラマンの矜持

1995年、俳優渥美清の遺作となった映画「男はつらいよ 寅次郎紅の花」の撮影に、クロ現のスタッフが60日間にわたり密着しました。渥美はがんと闘いながらのロケ。NHKのクルーはそれと知らぬまま取材を続けました。撮影を担当した広田亮カメラマンは渥美の死後、読売新聞に当時の状況を語りました。1999年11月19日付の同紙「『拝啓・渥美清様』(50)撮影の現場から 広田亮=上」から引用します。
(前略)渥美はがんに侵された身を引きずるように、最初のロケ地、岡山に入った。
「撮影の合間は座ったままじっと動かず、ファンの問いかけも無視。全く人を寄せつけない雰囲気があった。こちらも、いつ声をかけていいのか間合いがつかめなかったマイクを向けても、ひと言答えるとカメラから顔をそむけてしまった。毎日が『今日も撮れなかったか』と落胆の連続だった」
ニュースカメラマンとして火事現場で恐怖を感じた経験はあったが、広田は初めてレンズの中の人間を怖いと思った。普段なら図太くカメラを向けられるが、渥美にはためらわれた。
「アップで撮っていると、時々ちらっとこっちを見て、レンズを通して目が合った。いやな気持ちになって、『わー』と叫びたいぐらいだった。『こんな風に撮られるの嫌なんだろうな』『怒ってるんだろうな』って、つまんないことを考えて、『NHKさんいいかげんにしてよ』とか何か言ってくれればいいのに、ただじっと見ているだけだから。何度も録画をストップさせようかと思った」
岡山から震災後の神戸を経て、奄美大島南端の加計呂麻(かけろま)島に入ると渥美の態度は一変した。元気なころの渥美に戻り、冗談でスタッフを笑わせた。海岸で待望のインタビューも実現した。
<寅さんも24時間手を振ってなきゃ、ね。ご苦労さんなこったね……>
「撮りながら『これは使える』『これは面白い』と力が入った。立ち上がった渥美さんがお付きの人たちと雑談して、『おれ映画の中じゃもてないけど、学校の女の子はおれんとこに寄って来たんだ』と実に楽しそうに話していた。目の細いディレクターがもっと目を細め、『どうだった』と合図を送ってきた」
4人のクルーはそろってこぶしを握り締め喜びを確認し合った。
「もっといいものを、とずうずうしくなっていって、寅さんがオウムをどう見るか、震災についてはどうかと、聞きたいことがたくさん出てきた。こんな話で一時は盛り上がったけれど、結局使えるインタビューはあの1回きりだった」(引用おしまい)
広田カメラマンは、とらえどころのない渥美清にほんろうされました。命を削りながら映画づくりに集中する俳優にとって、テレビドキュメンタリー班はわずらわしい存在だったでしょう。しかし、映画の宣伝にもなる公共放送の取材を適当にあしらう渥美。それに対して“これでいいや”と満足せず、より良い画を求め突き進む報道屋、テレビ屋の欲は好ましいものです。
この後、取材班は体調不良に苦しむ渥美から、さらなるドキュメントの難しさを思い知らされるはめになります。翌20日付の同インタビュー「下」より引用します。
(前略)「わざと使えないようにしゃべっているんじゃないかと思うぐらい。何を言っても『ああそう』『そんなもんかなあ』『どうかなあ』『わかんないね』って、全く受け付けない。カメラから顔をそむけちゃう。こっちは冷や汗がダーッと出てきた。今思えば、『もうおれはやなんだ。NHKさんにはもう十分してあげたじゃない』と、暗に伝えていたんだと思う」
いたたまれなくなったスタッフたちは、「どうも失礼しました」と頭を下げて引き揚げた。しかし、大船では思わぬシーンに出くわす。記憶力がよく、長い語りもすらすら出てくる渥美が、何度もセリフに詰まった。広田は3メートルの距離にしゃがんで、カメラを構えていた。
「いつ渥美さんから『出てけ』とどやされるんじゃないか、『やだなー』と思いながら撮り続けた。その一方、プロとしては心の中の半分で、『結構いいのが撮れた』とも思った。ドキュメンタリー番組である以上、『もう昔の寅さんじゃない、相当衰えている』と、やんわり視聴者に伝えなければいけないと思っていたから。仲間には一番いいカットと言われたけど、渥美さんには一番いやなカットだっただろう。めったに失敗する俳優じゃないと知ったのは後になってから。そのほんの一瞬を撮っちゃって、『本当にごめんなさい』と謝りたい」
撮影最終日、大船撮影所のセットで、カメラを右手に下げた広田は偶然、初めてレンズを通さずに渥美と目が合った。黙礼をすると、渥美はわずかに首を縦に振った。感激した広田は仲間に、「渥美さんが微笑(ほほえ)んでくれたよ」とはしゃいだように話した。
「おれ、そんなに嫌われてなかったのかなあとホッとした。全体を通しては、仕事はうまくいったとは思わないけれど、さわやかな感じが残った。演技をするためには無駄なものを一切切り捨てる。大げさだけど、男たるもの、こうでなくちゃいけないということを教わったから。しがらみの中で生きている我々サラリーマンには、なかなかできないでしょう。2か月間、ほとんど私語を交わしたこともないし、彼のことを千分の一も分かっていないけれど、大人物っていうのはああいうものかと、それが僕らにも伝わったような気がする。寅さんファンではないけれど、間違いなくあれ以降、渥美清ファンにはなった」(引用おしまい)
報道カメラマンの意地が最高のカットをものにした一瞬がありました。待ちが身上の報道撮影の辛抱と視聴者への責任感が生んだ仕事でした。
広田さんがレンズの後ろで思いをはせた視聴者への義務感、さかのぼれば「日本の素顔」開始の折に吉田直哉が宣言したスピリットは、このまま失われてしまうのでしょうか。
現実と向き合い、自ら思考すれば、だれであれ権力が右と言うものを左と放送することもあってしかるべきだと気づくでしょう。四角四面の「バランスを取りながら」怪説解説を述べる愚に思い至るはずです。新入報道局員から経営者に至るまで、職責にかかわらず持つべき普遍的な考え方です。
「クローズアップ現代」の死とともに、広田カメラマン、吉田直哉、そしてその他大勢の優れたドキュメンタリーを送り出してきた人たちの努力と結果をも一緒に埋葬してしまうことなきよう願いつつ、弔辞の結びとします。
さようなら、ドキュメンタリー。