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2015/05/16

五・一五事件と2人の女性(2)

五・一五事件で、首相官邸へ押しかけた将校たちを、犬養毅はいったんはいさめ、話し合いを試みました。そこへ飛び込んできた別の一団。その中の一人、山岸宏海軍中尉が発した「問答無用。撃て!」の号令により、犬養の命運は尽きたとされています。山岸中尉は反乱罪で無期禁固が求刑されました。
事件からおよそ1年半の後、横須賀での軍法会議法廷は、中尉に禁固10年の判決を下します。このころ、すでに言論機関の萎縮によって、世論は将校たちに同情的になっていました。山岸中尉は、後に減刑され、1938年2月に出所しています。
軍法会議での想像以上に軽い刑に、ほっとした様子で、傍聴席から中尉の背中へ涙の微笑みを投げる女性がいた、と1933年11月10日付の朝日新聞は伝えています。
中尉の姉、山岸多嘉子さんです。彼女はその後、女性誌の記者を経て意外な人生を歩みました。中国・上海郊外での宣撫部隊隊員です。
「宣撫」とは、占領地で現地民に占領国の思想を広めて、領民を安心させたり洗脳したりする仕事です。この手段は別に日本に限ったものではありません。敗戦後のGHQの民間情報教育局だって、日本人に対する宣撫政策機関だったと言えるでしょう。
五・一五事件にかかわった将校たちが、いつの間にかヒーローのごとく扱われる状態になっていた国の権力者にとって、多嘉子さんの宣撫活動は格好の宣伝材料だったはずです。実際に中国人児童を日本に連れ帰っての宣伝戦を仕掛けています。来日した対戦国出身児童らが、相当な差別的対応を受けた記録も、当時の新聞記事からうかがうことができます。
しかし、山岸多嘉子さんは、ただの宣撫部員ではありませんでした。中国のこどもたちを愛してしまったのです。当時の世相にあって、最大限の努力をもって、日中友好を訴えている一文を見つけました。
1940年7月27日付の朝日新聞への寄稿「道は遠くけはし」から引用します。
(前略)風俗習慣の相違を以て支那の人たちを判断しないで下さい、といふことです。お辞儀と云っても、頭を反対に後へ動かす位の事しかしない支那の人たちが窮屈さうに日本式のお辞儀を強ひられてゐたりするのを見ると、私は何だか切なくなります。私たちから見て、欠けてゐると思はれる事は、支那の人たちに取って必要で無かったから欠けてゐるのですし、私たちに不必要だと考へられる事でも、支那の人たちには入用であったればこそ発生したのです。もし、どう考へてもよくないことがあったとしたら、私たちはそれを、鳴物入りで矯正しようとせず、そんな事をしない方が、さうするよりも斯う(こう)した方が、よいと云ふことを身を以て示すなりして、さり気ない仕方で示さなければなりません。私たちと支那の人たちが全く意気投合してしまふ迄(まで)は、辛抱強く相手を理解し、知らず知らずの間に近づいて行くやうにしなければなりません。解り合ってしまへば、意気投合してしまへばあゝ、その時こそ、私たちは一つの組織の中にとけ込んで、東亜の黎明を、世界の暁を、謳ふ(うたう)ことが出来るのだと思ひます。
道は遠く険しく艱苦(かんく)の一途であるでありませう。けれども私たちは、凡ゆる(あらゆる)不平を捨てゝ進みませう。それが此の時代に生れ合せた人間の責任であり、又大きな喜びであるのですから。(引用おしまい)
多嘉子さんは、弟が軽い刑期を終えて出所したことで浮かれていませんね。それどころか、本気で日本と中国の友好を願っています。当時の世相からすれば、勇気の要る発言だったと思います。
ひるがえって、現在の日本の「嫌中」に目を向けてみましょう。どうやら現職総理大臣は中国がお好きではないようです。「戦略的互恵関係」なる言葉からも、それがうかがえます。嫌いだけど仕方なく付き合うんだよ、ってムードがアリアリ。いっそ言わなきゃいいのに、とつぶやいてしまいます。
安倍さんには、中国のお友達が何人いるのかな?  えらい人だから、まさかゼロじゃないよね。大丈夫かなぁ?
えらい人が、特定の民族への嫌悪感を表してしまうと、中国人のお友達がいない、世間の狭い人たちが追従してしまいます。
戦後70年を迎える今年こそ、日中両国が仲良くなるべき年として、山岸多嘉子さんの言葉を考えてみたいものだと思い、紹介してみました。
世界の難民の救済へ先頭に立つ犬養道子さん、中国のこどもたちを支えて相互理解に向け闘った山岸多嘉子さん。2人は五・一五事件での立場こそ正反対でしたが、お互い人権を大事に考える立場になりました。
安倍さんにも、一考いただきたいシンクロニシティです。