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2014/10/07

テレビ全体のニュースウォッチ9根性を嗤う

公共放送会長のイスは本当に座りごこちがいいな。予算編成問題とお上の放送免許を振りかざせば、幹部・現場を問わず震え上がって、看板報道番組を政府与党の広報に差し出しよるわ。
「ニュースウォッチ9」で経済再生論を一席ぶたれた財務相も、さぞかし御満悦であろう。次は総理に「週刊ニュース深読み」にご出演いただき、集団的自衛権について語ってもらうとするか。国防意識は子供にこそ持ってもらわねばならんからな。健全なる少国民教育こそが、待機児童などより優先する国の重要課題である。極右閣僚の保護も大事だから、在特会の代表も「深読み」に出すぞ。
民放局にも思想の徹底を図る時だ。翼賛放送だ。皇国の興廃、ここにあり。ガタガタぬかすなら、免許を盾に百田を社長に送り込め!

9月29日、「ニュースウォッチ9」を見ていたおじさんは、経済再生問題を語るべく、麻生太郎財務相が映った途端、反射的にリモコンをつかみ、チャンネルを替えました。これまでも散々政治家の御託の開陳を垂れ流し、政府の提灯持ちに徹してきた「ニュースウォッチ9」に勘忍袋の緒が切れたが故の反応です。報道番組でそんな感情的な行動を取ったのは初めて。NHKはいったいどうなってしまったのでしょう? 
今日は、本来なら権力の監視を責務とすべきメディアたる日本のテレビに政治を扱う資格があるのか、視聴者にとってそれを見る価値があるのかを考えてみたいと思います。
1972年6月、佐藤栄作首相の退陣が決まった際、首相は新聞の報道を「偏向」だと公言、「テレビカメラはどこだ? 新聞記者は大嫌いだ。新聞は出ていけ。(記者会見を)やり直す」旨の発言をして、新聞記者と対立しました。記者は全員退席、結局テレビカメラのみを相手に会見を行いました。
佐藤栄作は、なぜテレビだけに話をしようとしたのか。1972年6月17日の朝日新聞夕刊「泣いて笑って引退劇」でのボストン・グローブ紙東京特派員、クロッカー・スノ氏の談話が、現代の「ニュースウォッチ9」をはじめとする、テレビの腰の引け方の原点であるかのような好例なので引用します。
ニクソン大統領(Richard Nixon)は60年にケネディ(JohnF.Kennedy)と大統領選を戦って負け、62年にカリフォルニア州知事選でまた敗れたあと、政界引退の記者会見で新聞への悪口をぶちまけて「もうこれ以上おれをけり回すことはできんぞ」と言って話を終えた。これに今度の佐藤氏の演説は似ている。どの政治家にとっても、自分のやることは正しいと思えるわけで、これに対しての批判は不公平、不当なものと感じがちな傾向が一般にあるようだ。アグニュー副大統領(Spiro Agnew)は新聞、テレビの社名や記者の名前まであげて演説で悪口をいい、米上院でアグニューに反対する議員が報道関係者を証人に呼び、反論の機会を与えたことがある。アメリカのテレビは解説番組が多いので、しばしば政治家が偏向を問題とする。佐藤氏がテレビは正直だ、という趣旨のことをいったのは、日本のテレビが政治に関して、政府のいうことを単純に伝えるだけであることが多い、といっているようなもので、テレビに対する間接的だが鋭い批判であるといえよう。(引用おしまい)
皮肉が利いていますが、我が国のテレビ局は米国と違って国家権力に対する批評精神などない、と言いたいのですね。最近の「日曜討論」だって、まるで御用聞きだし。
フクシマのフの時もすっかり忘れられた民放局だって、他人事ではありません。「ニュースウォッチ9」をはじめとする報道番組とは、テレビとは、お上の広報電波だと認識した上で視聴しないと、洗脳されますよ。
日本人は、そんな覚悟がなければテレビを見てはいけない時代を迎えてしまいました。
ニクソンの「これ以上おれをけり回すことはできんぞ」とのセリフ。普通なら、国民がテレビとその先の権力に向かって言うべきものです。政府は、どれだけ国民をけり回せるものか、われわれがどれほど無知無能なのか、テレビを通して見ています。
どうすればいいの? テレビ見ながら考えましょか? いや、テレビ監視しつつ考えましょう。