コピー禁止

2015/06/14

「花燃ゆ」第23話感想「視聴者の告白」

「花燃ゆ」第22回の感想執筆はあきらめました。だって、あまりにひどかったんだもの。
わざわざ素敵な着物をまとった女たちの軍事防衛事業に名を借りた、田舎者が思い描く程度のエセ上流階級サロンを延々と見せつけられて心が折れました。
いかなクズとはいえ、視聴者が映像作品の感想を書く時、こうなってほしいとか、ああではいけないなどといったポジティブな気持ちがあってしかるべきだと信じています。それ故、地獄の朝ドラ「マッサン」は総括の上、途中から一切触れるのをやめましたし、大河であろうと田舎者が思い描くエセ上流階級サロン的バブル臭ぷんぷん回(大事なことだからもう一度書きました)にもくわしく意見を述べる気が起きません。ここは筋を通したい。
この制作サイドの特権意識、なんだろう? 既視感がある。ああ、腐れ駄作朝ドラ「ごちそうさん」と一緒の成金願望だ。いつもオープニングタイトルで「大河ドラマ」って字がちっちゃくて、「花燃ゆ」の方がドーンとデカいんですが、大きさ逆にしてくれませんか。これが大河であることを忘れそうだから。
第23回「夫の告白」の感想を、第24回の放送日に上げました。この遅さから、視聴者が本作をいかに考えているのかご理解いただきたい。先週作は、1920年代のソ連より始末が悪い脚本トロイカ体制から、大島里美氏の執筆になります。ちなみにおじさんが感想を放棄した「妻だか麦だかと奇兵隊」とかいう「ごちそうさん」モドキもこの人の筆。毎回の脚本家をチェックしておいて、年末の放送終了後に3人のうちのだれが一番歴史オンチで、創作能力に欠けていたかをウェブサイト上で議論する遊びをするのはいかが? ドングリの背比べ激戦必至。視聴モチベーションも多少アップするやもしれませぬよ。
冒頭から、まだ土いじりのママゴトやってやがる。こどもも、メイクさんが塗った申し訳程度の泥(たぶんドーラン)をまとい、健気に働いています。「土が入った桶」を母に見せて、「力持ちね」とほめられる息子。直後にすっ転びますが、中は空っぽやん。桶に入れた土のこぼし方すらわからんのですか。内側が汚れてもいない。現場の道具がどれも新品ぽい。ニトリでまとめて買ってきたのを、値札だけはずして撮影しているんですか?
京都ではナレーションとテロップで情勢の説明が行われます。乱暴ですね。Eテレの高校講座じゃあるまいしさ。脚本の力量不足があらわに、というより大島さん、歴史を描くことに興味ないでしょ。調べるの、いちいちメンドーなんですよね。きれいなお着物姿のキャストにニトリの桶持たせた方が脚本家極楽。視聴者は地獄。その姿勢は三条実美のセリフにも明らかです。
「ミカドは攘夷決行をえろうほめてくれはった」。実美、アホなん? 下町の酔っぱらいオヤジじゃあるまいし、公家が天皇をこんなに不敬に語るはずがありません。長州に追いやられても自業自得でしょう。
そこへ、その疑念も何もかもを吹き飛ばすゲス女、辰路出現。下手くそ過ぎる京都弁が何もかもワヤにします。「しやはった」「やす」等々のわざとらしい言葉を使うならアクセントを京ことばに直して下さい。この芸妓が口を開けばサブイボ立ちまくります。この状態での久坂玄瑞との演技合戦は、まさにインフェルノ。俳優学校はこのシーンを反面教材として学生に見せましょう。役者なんてチョロいと勘違いさせてはいけませんので、市川崑監督の映画「細雪」も併せて鑑賞させましょうか。吉永小百合、佐久間良子、石坂浩二ら東京出身の俳優の関西言葉はリアリティありまっせ。彼らがすごいんじゃありません。それがプロの水準。「花燃ゆ」では、薩摩藩士もめちゃめちゃな九州弁を話していますね。最近のアクターの間では役づくりってダサいんですか?
前原一誠が「あんたには俺たち仲間がおる」と、ちょっと前の青春野球ドラマをかまします。久坂はリーダー設定ちゃうんかい? 「仲間」などとほざかず、指導者への敬意を見せよう。大島さん、思いつきで書いてませんか?
「孤独に追い込まれた松陰先生を見とるようで」。前原は久坂を松陰と重ねます。吉田、コドクでしたか? 常に家族や塾生、囚人どもとわちゃわちゃしたり、小田村伊之助と意味不明の日本語らしきものを交わして遊んだりしてましたが。そんなのは生きてるうちに描いておきましょう。セリフでエクスキューズするのが、花燃ゆクオリティになっちゃってます。前回だって、美しいベベ着た女どもに「泥まみれになって」とセリフで嘘をついていました。フンドシ一丁のモブ男ですら、マミレていないきれいなハダカでしたよ。「平清盛」で「汚いキャラ批判」を浴びたせいで、リアリティを捨てたんですかね。
今回は障害を持つ敏三郎をクローズアップ。完全創作です。その処理法がえげつない。
「何の役にも立てんなら、なんでボクは生きとるんじゃ」とのたまう弟。人はそれぞれ違います。ヘレン・ケラーは特別な存在で、大方の人間は彼女ほど強くありません。それは健常者でも同じ。脚本や演出がさしたる動機を与えずに、ハンディキャップに関係なく人の役に立てなければ生きている価値がない、などと断じるのは言語道断。そこに思考が及ぶなら、続く「でも、あの子は」、「高杉殿は耳のこともわかっとる。それでも来いと言うてくれた。ありがたい」のやりとりが、いかに残酷であるか理解できますよね。
「寅と同じ目をしとった」と性懲りもなく息子を次々と死地に追いやる両親。軍国主義にまみれた戦前の社会だって、お国のために息子たちを喜んで差し出したわけじゃないでしょう。杉家は、いま話題の平和安全保障法案に丸乗りしているのでしょうか?
あっさりと八月十八日の政変の描写。長州藩にとっては重要なポイントです。桜田門外の変のように銃声とナレで済ますよりはマシです。でも、薩摩藩士が面前で「薩摩めが」とののしられ、長州は長州で鉄砲を突きつけられれば、それは双方にとって武門の恥。戦闘にならなければおかしい。武士の本質を知らず、演出やり過ぎました。以前にも指摘しましたけど、「花燃ゆ」には歴史を生きた人たちへの敬意がないのです。
事件を聞いた高杉晋作は、奇兵隊を上洛させて戦争を始めようとします。彼の非論理的なところがたまたまうまく描かれたセリフになりました。元々が思想家ではなくテロリスト気質なんですよ。
なんだかんだダラダラあって、久坂が帰宅。妻は「お帰りなさいませ」と座敷の上座から迎えます。上格の高杉家で菓子を出した時もそうでした。つくづく人の上座に座るのが好きな女ですね。
その場で「京の女と情を通じた」と久坂が宣言。シュミ悪すぎる。夫婦とはそんな薄っぺらいものであるはずがない。妻は「そねえなことくらい」と流しにかかります。こんな優柔不断なヒロインにだれが共感するんだ。諸事情をごまかし、ネグって砂上の円満を作り出せばいいのか。ホームドラマとしても完全に破たんしています。
そもそもホームドラマとは何なのか? 画面の家族がただ仲良くしていれば成立するものなのか?
1973年、TBSは「あんたがたどこさ」、NHKが「北の家族」という家族ドラマを放送します。両作とも家内関係の設定は各人バラバラ。それでも大ヒットし、ホームドラマブームが起きました。今日は、それを取り上げた同年10月31日付の毎日新聞「帰ってきたテレビ・ドラマ ブームの背景」を引用することで、ホームドラマについて考えてみます。年号は昭和です。
(前略)藤竹暁氏(NHK総合文研・主任研究員)が「ホームドラマは《ナルシスの鏡》」(放送文化7月号)という評論の中で、ホームドラマの変遷について述べている。それによると、テレビのホームドラマの歴史は四つに大別できるという。
第一期は33年から38年ごろまで。代表作が「バス通り裏」「パパは何でも知っている」(ともにNHK)など。
第二期は、一家に1台テレビが普及した39年から42年ごろ。代表作は「七人の孫」「ただいま十一人」(ともにTBS制作)
第三期が43年から48年ごろ。代表作が「肝っ玉かあさん」「ありがとう」(ともにTBS制作)
第四期が現在。
そして藤竹氏は、各期の特色を次のようにとらえている。
第一期は、核家族的生活様式の描写にあり、夫婦と子供をめぐってドラマが展開した。
ところが第二期になると主役が変わってくる。日本の家族が現実に核家族化していったときぶつかる“しゅうと、しゅうとめ”の問題が主役になってくる。しかし、ここまでは「理想的な家族像というもの」があり「新しい波にもまれながらも、家族が調和を保ち、矛盾を解決するさまが描かれて」いた。
第三期ーこの時期の人気番組の家族の特色は、主人が欠けていたり、構成が複雑になったりしていることだ。ここには理想の家庭像はない。むしろ世代の断絶や考え方の違う人間同士が、一つの家の中でどうして家族として暮らしていくか、その方法をさぐっていくことが、そのままドラマになった。(引用おしまい)
送り手側が、ホームドラマとはいかにあるべきかを熟慮沈考していた事実がわかります。「花燃ゆ」からはその意図が一切伝わってきません。そもそも、「テロリスト養成所を支える一家の人生」なる、1970年代アングラ不条理演劇もビックリの設定ですから、なまなかの展開では許されません。設定を終了させた時点で思考停止してしまった本作が迷走するのは必然でしょう。
引き続き、同記事から引用します。
現在ーホームドラマの作り手はなにをねらっているのか。
「家族とはなにかということなんです」と「あんたがたどこさ」の武敬子プロデューサーはいう。
「血がつながっている。一つ屋根の下に住んでいる。だから家族だという常識がこわれてきたのが現代です。一緒に住んでいても母だけが心理的に放っておかれている家もある。一方では、子を捨てて平気な母もある。こんな時代を描くために、逆に血縁のない大家族を設定した。家族のようで実は家族ではない人間たちの相互の愛やにくしみを描くことで、家族とは、血とは一体なんだろうと考えてみたいのです」
「北の家族」の作者、楠田芳子さんも、テーマは「現代における家族とは何かということ」という。そのため、彼女は兄と妹との愛情を中心に一家の危機と再建を描いている。
この二人、二つの番組に共通しているのは、ホームとは“あるもの”ではなくて“作るもの”という考え方だ。テレビは日常的である。それ故、常に時代を反映する。藤竹氏はそれをナルシスの鏡にたとえているが、今日のホームドラマの設定の異常さは、つまりは時代の異常さの象徴でもある。(引用おしまい)
テログループを持ち上げ、障害のある人物にまで出征賛美を投げかける「花燃ゆ」は、戦争法制が整備されつつある時代の異常性が生んだ迎合作品なのでしょうか。いやいや、そう考えたくはありません。時代を読まず、空気を読めず、ただただ壊れた作劇が続く駄作にすぎないと信じたい。このリテラシーの欠如と無神経を、作為だと思いたくない。
「あるもの」であって「作るもの」ではない、ホームドラマを自任する時代劇らしき作品が、今夜も流れます。今晩中に感想を書けるか、またも1週間後になるのか、それとも再び放棄するのか。
いよいよ「花燃ゆ」から目が離せません(棒読み)。