田崎のような大正生まれは、もっとも戦地に行かされ、そして死んでいった世代です。田崎も過酷な南方戦線に応召しています。
1974年6月17日の朝日新聞に劇作家の阿木翁助が書いたコラム「タレントふれんど」から引用します。
夕方ソファに仮眠して目がさめると、茶の間でハジけるような男の笑い声がした。いや、笑い声で目がさめたのかも知れない。なにごとかと入ってみたらテレビがNHKの「連想ゲーム」をやっていた。笑い声の主は派手な上着を着た田崎潤であった。この番組で彼の顔を見るたびに、私は平和っていいなぁとしみじみ思う。それは戦時中、彼の留守宅で、写真の前に置かれたカゲぜんを見たことがあるからだ。そのころ、彼は田中実と言った。浅草の清水金一一座で、彼と堺駿二が座長の両腕だった。この2人は戦後売り出したが、そのころからすでにズバ抜けていた。彼らは私の脚本のいくつかを上演してくれたが、中には海軍士官の田中が特攻隊となって死ぬ芝居もあった。私は死ぬ士官を「よく笑う男」として書いた。笑う男が死ぬと、芝居でもさびしさが一層客に感じられるものだ。明るい声でさんざん笑った田中が死ぬと、客は泣いてくれた。(中略)ある日、公用外出の帰り、浅草へ行った。田中の奥さんの実家が大きな大阪ずしの店だった事を思い出して寄ってみた。店はやっていて若奥さんのシイちゃんは忙しく働いていた。(中略)田中は南方に行ったまま消息がないという。もうサイパンも落ちたころだった。その帰りにちょっとのぞいたシイちゃんの部屋に、田中の写真と酒までそえたカゲぜんが見えたのだ。「ああ、やってるねー」と言うと、彼女は「今ごろは灰になっているかも知れないけどね!」とさびしく笑った。しかし、田中実は無事帰って来て田崎潤になった。(引用おしまい)おじさん、なんだかじーんとします。 スクリーンでは大げさな口ひげを付けて軍人然とふんぞり返っていた田崎も、太平洋の地獄からの生還者です。役者の徴兵ですから、むろん士官ではない。兵卒暮らしのつらい戦場だったでしょう。田崎は倒すべきゴジラの向こうに何を見ていたのか。
核戦争は起こり得ないと言う人がいます。残念ながら何の確証もありません。偉い人が集団的自衛権などという物騒な代物を振り回す、第二次世界大戦が忘れられた時代になりました。みんなも油断しないでね。第二、第三のゴジラが世界のどこか、日本のどこかに現れるのはごめんです。
宝田明さんも田崎潤も、戦争と闘って生き延びた人たちです。反戦反核のテーマを咆哮したゴジラは敵ではなく、戦友だったのかもしれません。