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2014/10/24

元特攻隊員たちの戦後

第二次世界大戦中に日本軍が行った戦術の中でももっとも愚かしい、特別攻撃隊(特攻)の初敢行から70年がたちました。
特攻とは、飛行機や船舶に乗った兵士が敵に体当たりする部隊です。軍の命令で行われ、数千人が犬死にしました。
自殺することで相手も殺す狂気。特攻そのものはもちろん、立案、実行した日本軍を礼賛するわけにはいきません。慰霊の際には「戦前の誤った国体の犠牲になった御霊」との認識が個人にないと、死者も浮かばれません。
特攻隊には、生き残った人たちもいます。彼らのごく一部の戦後をのぞいてみます。
19451226日付の朝日新聞「特攻隊員、辻強盗に転落す」から引用します。仮名遣いなど、おじさんが現代風に改めています。
(前略)クリスマスイブの24日夜、非常警戒の網に「エンコの3人組」として上野、浅草界隈を荒らし回っていた不良少年の一味が捕まった。A・B(本名や住所は省略)の二人。去る19日、浅草国際劇場裏の墓場で、ある少年をあいくちで脅迫、オーバー・短靴を奪ったのをはじめ、その他4件370円以上を奪っていたもの。
Aは昨1912月、神田の某工業学校3年を中退し、三重海軍航空隊予科練に入隊、終戦当時は海軍飛行兵長として、相模湾で本土防衛の水際特攻に余念がなかった。
家庭では7人兄弟の長男で、辻強盗などしなければ食ってゆけぬ家庭では決してなさそうだが…。以下、Aとの一問一答である。
「復員後、真面目な職につくつもりはなかったか」
「父がこれからは工業は駄目だ、商売でなければやってゆけぬと言ったから区役所に貿易の仕事を求めたが断られたので、友人の世話で鎌倉の進駐軍向け骨董屋へ行った。しかし、そこは3日で辞めさせられた。本所区同愛病院で進駐軍の雑役夫をして日給15円をもらっていたが、ここも10日ぐらいで辞した」
(中略)「初めて辻強盗をやった動機は」
「Cがちょっと掛ける(脅迫のきっかけを作ること)から番をしていろといったのが始めだ。その時50円くれた」
「復員当時もらった金はどうしたか」
「復員当時、200円と後で400円もらったが、50円だけ残して他は親に渡した」
(中略)「なぜ1回で止めなかったか」
「こんな事をやっていても仕方がないと思って、進駐軍の仕事に行ったが、翌日になるとCにまた誘われた」
「かつて特攻隊員として、国民から尊敬されていた身が辻強盗をやった時の気持ちは?」
「嫌だった(泣く)。しかし復員当時は、兵隊が負けたんだという風な態度で扱われ、また敗残兵とも言われた」(激しく泣く)
この最後の質問に、彼は激しくむせび泣きながら、飛行服の袖をこするばかりだった。(引用おしまい)
 人間は自らの境遇や恥といったものを他人のせいにしたがります。お国のために戦ったと戦中、持ち上げるだけ持ち上げられた元特攻隊員は、敗戦と同時に手のひらを返され、さげすまされたんです。国民が彼を犯罪者にしたのです。
特攻入りしなければ、おそらく選択することもなかったであろう人生もあります。1964年3月16日付の朝日新聞「元特攻隊員 司祭に任命」から引用します。
【パドゥア(イタリア)15日発=AP】第二次大戦のとき神風特攻隊員だった日本人が14日、北部イタリアのパドゥア(Padova)市でカトリックの司祭に任ぜられた。

佐賀県有田市の松尾隆幸さん(38)といい、この日、聖アントニー寺院で、ボルティニョン司教から、ほかの9人とともにこの栄位を受けたもので、これからは“ルイジ神父”と呼ばれる。

同氏は1949年、キリスト教に改宗、54年フランシスコ派に加わった。日本で5年間、神学を勉強したのち、イタリアへ渡り、パドゥア神学校にはいったものである。

松尾氏の話 復員してから哲学を学んだが、憂うつと挫折の思いはしだいに強まるばかりだった。194812月のある日、私は家を出て、川の方に向かった。おそらく自殺しようという気だったろう。だが突然、浦上天主堂の美しい鐘の音が、暗い考えから私を引き戻してくれた。(引用おしまい)
長崎の鐘が、松尾さんの心に何を届けたのかは、特攻隊の異常体験を経て、自殺の心境にあった松尾さんにしかわかりません。
松尾さんにとって、宗教者の道が幸せだったのか? これは松尾さん自身にも答えが出せないでしょう。戦争や特攻さえなければ、まったく別の幸せな人生を迎えていたのかもしれない。
必ず死ねと命令された特攻は、ホロコーストにもつながる狂気です。死者への同情と哀悼の意を、特攻自体の美化へ転化してはいけません。