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2019/01/04

大河ドラマ「いだてん」は何を抱いて走る?

無芸大食「西郷どん」の“志”

昨年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の価値観が一般的なドラマと違っていたのは、全編を通じて主人公が“無芸大食の馬鹿”だったことでした。
無芸の馬鹿だから、激動の時代にありながら歴史に自らコミットすることなく、何かにつけては「民のため」と具体性皆無のスローガンを掲げては、半裸になって相撲を取ったり、流されるまま婚姻を繰り返して子孫繁栄に励んだり、犬の世話をしたり。その間に一橋慶喜や大久保利通が前後の脈絡なく凶悪化して、何だか知らないけど、「西郷どんは正しか人だけん、何をしても、何もせんでもヨカヨカ」となって、善人愚人凡夫の西郷隆盛は、戦を起こした自覚すらないまま、多くの士族を巻き添えにした西南戦争の敗走時にも、林間学校の中学生のごとくニコニコと楽しげに霧島の野山を駆け、大久保はいかなる日本を作るかを示すことなく、意図不明の斬奸状をいきなり突きつけられて暗殺されるという、歴史ドラマ全体へのテロと呼んでもいい終わり方をしたのが「西郷どん」だったわけです。第1回で、上野の銅像除幕式に呼ばれた未亡人が「主人はこんな人じゃない」と言ったから、じゃあどんな人だったのか、が描かれると期待していた全国の視聴者は、愚鈍な大将にすべてを託した挙げ句に見殺しにされた薩摩士族、またはインパール作戦の兵卒も同然の扱いを受けたんですね。
昨年の初めに本稿で予告した通り(拙記事:大河ドラマ「西郷どん」と視聴者の歴史観を参照)、「西郷どん」は、自分の歴史観を持たないし、持とうともしないことを公言していた脚本家にすべてを任せたがゆえの大惨事になりました。西田敏行さんは、視聴者を除けば最大の被害者。主要人物の能動的行動による時代の転換が行われないため、年表と時系列説明の朗読を延々と続けさせられ、竹下景子さん相手に楽しくマイクに向かうラジオのオーディオドラマとは対照的な鬱々としたナレーションでした。
本作は春ごろにはさっそく、番組制作現場の統制が取れていないと世間様にバレました。「ステラ」というNHKの番組を宣伝するために存在する、いかにも金銭感覚のぶっ壊れたテレビ局らしい誰得な有料の週刊誌が書店に並ぶんですが、渡辺謙さん(島津斉彬)の表紙写真に付いたコピーが「『志』はあるか」。
これ見て、ああ、終わってるなと直感しました。空っぽな時代劇に制作者が無理やりくっつける常套句が「志」です。4年前にこのブログでも散々非難、修正を求めた救いようのない駄作「花燃ゆ」で、松下村塾や長州藩のウスラ馬鹿どもがお題目のように口にのぼせていた「志」ですよ。「西郷どん」は「花燃ゆ」と同レベルの“志”で作られていたんですね。
蛇足ですが、電脳空間には「『花燃ゆ』の名言」という物凄いウェブサイトも存在するので、まだいまさら駄作のココロザシに興味が残ってる奇特な人は読んでみて下さい。あなたの心に刺さるイタい言葉が満載。名作だったのか、「花燃ゆ」?
歴史とは、かようにして美化されるのです。

文化国家の視聴者として

ここまで字数を費やして、昨年ひっそりと終了したダメドラの問題点を挙げてきたのは、新年6日から始まる「いだてん」が、視聴者に何を提出して、ドラマ視聴によって私たちは何を得ることができるのか、NHKと視聴者の間に大きな不安が介在するからです。このところ、大河関連番組を地上波・衛星放送問わぬ乱れ打ちで派手にやってますねえ。
今、なぜ東京オリンピックを描くのか? そりゃ、来年また東京五輪を開くから景気を上げる前宣伝という要素が大きいでしょう。でも、歴史ドラマがそれだけじゃ困りますよね。2020年のオリンピックは今のところ、財政破たんの危機に瀕した国家が、ゼネコンに金メダル争いをやらせて、それで景気も上がればいいけどな、というバクチにしか見えません。「五輪開催は民のため」なんて言うなよ。
放映権を巨大メディアがカネで争う米国などと違い、同調圧力のキツい和を尊ぶ日本では、NHK・民放合わせた全キー局が、ジャパン・コンソーシアムという横並びの組織を作ってケンカすることもない仲良しこよしで大会を迎えます。東京大会では、大手新聞各社もパートナーという名のスポンサーになります。オリンピック絡みの事象であればすべてが許される、“五輪無罪”の空気をメディアが醸成してくる危険性が極めて高いからこそ、視聴者は冷静にならなければいけません。招致委員会の贈賄疑惑もあったでしょ。モリカケ問題同様、なかったことにされてるみたいだけど。来年開かれる東京五輪の現状がとてもうさんくさいだけに視聴者は、「いだてん」が何を示してくれるのか、注視する態度を保つ文化国家の国民でありたいものです。

黄金の日曜日だった「黄金の日日」

優れたテレビドラマに付き物の歴史観・作品の主題を決めるのはチーフプロデューサーであり、体現するのは原作者、脚本家。そこに齟齬が生じなければ、本来優秀なスタッフは、素晴らしい仕事をするものでしょう。今日は、1978年に放送された大河ドラマ「黄金の日日」から、その点について考えます。
「黄金の日日」の原作は、当時すでに経済小説の第一人者となっていた城山三郎。NHKは、大河放映を前提にした連載執筆を城山に快諾させ、脚本家市川森一がテレビ向けに筆を加えました。
主役に口説き落とされた6代目市川染五郎(現・2代目松本白鸚)は、大河の撮影中は歌舞伎をはじめとする全舞台、映画・テレビドラマ、CM撮影などの仕事を入れず、同作に全力を注ぎます。ヒロインは絶世の美女栗原小巻。高橋幸治(織田信長)、緒形拳(豊臣秀吉)の名コンビに、鶴田浩二、十朱幸代、丹波哲郎ら茶の間に馴染みの顔ぶれが並ぶ一方で、アングラ演劇から参加した唐十郎、李麗仙、根津甚八、東映の大部屋俳優だった川谷拓三らをも時の人にした話題作でした。花沢徳衛の快演、ひたすらカッコよかった近藤正臣、花が咲いたように美しい竹下景子……。思い出話にキリが無くなるんですけど、それらを含めて「黄金の日日」が語り継ぐに値する作品であったのは、歴史を通して経済と、経済大国だった日本・日本人を考えるという主題の背骨が通っていたためでしょう。
キャスト・スタッフを束ねた制作の総指揮者、今でいうCPは一昨年に亡くなった近藤晋でした。戦後のNHKドラマの俳優供給元だった滝沢修、宇野重吉らの劇団民藝から放送局入りしただけあって、「黄金の日日」の制作過程、配役の妥協のなさに元演劇人の情念がうかがえます。
1977年9月23日付の朝日新聞のインタビュー「テレビ人語録 近藤晋」より引用します。年号は昭和です。
「時代は借りているけれど、中身は現代の話。むしろ現代劇では語りつくせないような問題点を鋭くついているーーそういわれるような時代劇を作りたい」という。NHKの来年の大河ドラマ「黄金の日々(ママ)」のプロデューサーだ。
これまで主人公は武将ばかりだった大河ドラマが初めて商人を取り上げる。戦国時代の末期、海外に雄飛した堺の豪商、呂宋助左衛門。物語は経済小説のベテラン城山三郎氏がこのドラマのために執筆にかかった。
「武力がものをいった時代に商売だけで繁栄した堺の町の姿は、いまの“経済大国日本”の姿とよく似ている。反権力の立場をつらぬき通した呂宋の生き方も現代人に考えさせるものがあるのじゃないか」
――もっと大衆になじみの深い人物の方がよくないか。
「大河ドラマも15年。歴史上のたいていの人物はすでに何かの形で出てしまっている。かつて端役だった人物が主人公のドラマなんておかしいでしょ。それより未知の部分が多い人物を自由に活躍させた方が楽しんでもらえる」
――しかし、大河ドラマで歴史を知ろうと期待する人も多いのじゃないか。
「もちろん史実を無視するわけじゃない。群雄割拠の時代とされている戦国時代に経済の面からスポットを当てる。たとえば、信長が強かったのは、火薬の重要さにも気付いたから、という指摘もある。家康が財力をつけるために堺の町をいかに利用したか、というのも情報価値があるでしょう」
48年「銀河テレビ小説」が20分わくになった時の初代プロデューサー、次いで「土曜ドラマ」を手がけ「劇画シリーズ」「男たちの旅路」「松本清張シリーズ」などヒット作を生んだ。いまのNHKドラマに欠けているものは「おもしろさ」だといい「テレビドラマは文学や絵と違って電波にのせて送り消える。その時に見てもらえるようなものでなければ作らないのと同じだ」といい切る。
「見てる間はゲラゲラ笑ったり、ハラハラしているが、あとで胸にズシーンとくるようなものを作りたい」。おもしろくてためになる番組を目指すNHKの優等生。48歳。(引用おしまい)
過去の出来事から現代の問題点を整理して、新しい視点の娯楽作品の中で視聴者に提出するーー。これが「黄金の日日」のテーマでした。「いだてん」は、娯楽色もたっぷりに、俳優たちの魅力を引き出し、新しい時代劇として明治から昭和、そして平成を超えて以降の私たち日本人のための特別な主題を、過度に時代を美化することなく提出してくれるのでしょうか? 主役が著名人でない分、「黄金の日日」と同じように“未知の部分が多い人物を自由に活躍させる”ことができるかもしれません。期待しましょう。
かつて近藤晋プロデューサーが提供した黄金の日曜日の“志”がある大河が見たい。空っぽな言葉だけの「ココロザシ」は、もうたくさん。(一部敬称略)