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2017/09/04

愛される野党の党首像とは?

加藤紘一の勇断を潰した社会党

加藤紘一・元自民党幹事長が亡くなってやがて1年。世間では森喜朗首相の不信任決議案に乗ろうとした2000年の「加藤の乱」失敗で記憶される程度の扱いとなってしまったのが残念です。
加藤は40年前の1977年、衆院社会労働委員会で画期的な問題提起をしました。公務員の共済年金が民間に比べ、給付制度が優遇されすぎている点に言及、是正を求めたのです。
不平等格差を正すのは政治家の仕事の一つです。加藤の主張はまっとうでしたが、やはり国家公務員共済年金の当時の所管だった大蔵省や自民党内からの抵抗に遭いました。しかし、加藤のアピールに対する抵抗勢力の先兵として「年金の額だけで官民格差を云々するのはおかしい」と口を極めて反対したのは、よりによって野党第一党の社会党でした。党の支持母体だった日本官公庁労働組合協議会(官公労)の既得権益を守ろうと、社会党議員が決起、加藤紘一の提言をつぶしました。国民の生活に立脚できなかった社会党が、その後いかなる末路をたどったかはご存知の通りです。
民進党の一連の騒動を延々と見せつけられて、このエピソードを思い出しました。蓮舫前党首が就任直後に支持団体の連合に原発ゼロ政策を拒否され、あっさり引き下がった時点で、この役立たずをお払い箱にして党首選をやり直すべきでしたが、ズルズルと居座り党勢はさらに衰退。以前、事業仕分けの場で「二番じゃダメなんですか?」と言い放って、トップを目指し日夜働く日本中の企業経営者・サラリーマンや学者たちの反感を買ったことがありましたけど、どうやら自分とこも二番手で満足していた模様。都議選では二番どころか議席を大量に失って、党内ポピュリストたちの突き上げや離反が相次ぐ始末です。終いには党首を辞める段になってご自身の衆院選への鞍替えも撤回して、腰の座らなさを露呈したままフェードアウトしていきました。政治家に向いてないよ。
ここ、本当にもうどうでもいい政党だと思いますが、朽ちても腐っても一応は野党第一党。代表選とその後の執行部人事を見るに、新たな巨大ゆ党の誕生が懸念されます。どうでもいい政党だったのが、新たな監視対象となりました。ひどいもんだよ。

社会党にもいた“国民的党首”

安倍晋三内閣の支持率が降下し、都議選で過去最低の議席数に落ち込んだ要因は、森友・加計問題に絡み「安倍さんの人柄が信用できない」にあると報道されています。リーダーの人格が政党支持率に反映されるのは明らか。民進党(民主党)の歴代代表の雁首を頭に浮かべて、各時期の同党支持率の推移を見比べると、あながち間違っていないと確信できます。
新幹事長に就任した山尾志桜里氏にしても、昨年の国会で安倍さんが「私は立法府の長だ」と、とんでもないことを口走った時に、保育所問題の質疑を止めて、「あんた、何言ってんだ?」と詰め寄るくらいの気概を見せなきゃいけませんでした。議会制民主主義の根幹にかかわる問題ですからね。無反応のヤマオは、そのまま議事を進行。その無神経さに「この人、バカなの?」との疑念を生んだ時点で、人心は離れていきます。民進党には広く国民に愛される政治家がいません。
かつて社会党に、河上丈太郎という政治家がいました。戦前には無産党議員、戦後は大政翼賛会総務を務めさせられた経歴から公職追放の憂き目に遭いました。追放解除後、右派社会党に復帰した際には一切の言い訳をせず、万座で自分の戦争責任を認めて謝罪しています。社会党委員長時代は、「社会党には投票しないが河上さんは大好き」という有権者が大勢いたそうです。
体を壊して委員長を辞めた後も、遊説に全国を駆け巡る生活を続けた河上は1965年12月、3度目のクモ膜下出血を起こし死去しました。その際、多くの政治家が追悼の意を表しています。驚くべきことに、岸信介の腹心として日米安保条約改定に奔走した自民党の超タカ派・賀屋興宣が河上を絶賛しています。同年12月4日付の読売新聞夕刊「よみうり寸評」より引用します。
(前略)一高(引用者注・現東京大学)以来の旧友賀屋氏は河上氏に「今の政界で、人柄、人格からいって君が第一人者だ」と言った。
河上氏は「つまり今の政界では、ダメな人間ということだな」と答えた。賀屋氏の額面通りの評価に含まれた皮肉に、反応したわけである。賀屋氏の指摘する彼の美徳は、金をほしがらない、権力に左右されない、人をだましたり策謀を弄したりしない等にある。
人間として指導者として第一級の資質だが、実はこれは賀屋氏が指摘し河上氏が肯定したように、今の政治家としては「ダメ人間」の完全な条件である。昔は私財を使い果たした井戸塀政治家がいたが、今は井戸塀議員から出発してお大尽政治家に成り上がる。手段を選ばぬ金と権力への妄執の果てである。
川上氏がダメ人間なのは日本の政界がダメなためで、政治家の人格は盲腸扱いされている。グズ哲(片山哲・引用者注・元社会党首相)バカ八(有田八郎・同・元外交官、革新系政治家)と並んでダメ丈というわけだが、一面「エースの丈」として苦難の社会党を背負い、殉職というべき死をとげた。革新政党ならではのことで、賀屋氏の河上評はそのまま保守党批判だろう。(引用おしまい)
自党のダメさ加減の責任をすべて党首に押しつけて、国籍問題を蒸し返し戸籍謄本を公開させるような非人道的な政党からは、河上丈太郎のような人間が生まれようはずもありませんね。民進党には党のカラーを体現する党首の人間性の醸成の意識が欠けています。

浅沼稲次郎の男気

1956年、鳩山一郎首相は国交回復をめざし、ソビエト連邦を訪問します。日ソ間には領土問題の他、シベリア抑留者の帰還などの喫緊の人道問題もありました。
ところが、自民党内には、冷戦まっただ中の米国の顔色を気にした反対論も飛び交います。出発する鳩山の羽田空港での見送りはわずか。訪ソ反対のノボリすら立つ中、巨体を揺すって見送りに現れた野党党首がいました。浅沼稲次郎社会党委員長です。
このころの社会党は、日米安保条約にからむ米軍立川基地の拡張反対闘争(砂川闘争)の最中で幹部は連日その対応に追われていました。そんな中、利敵行為とも言われかねない敵将の見送りに、革新政党の代表がやってきたのです。
同年10月8日付の朝日新聞「記者席 浅沼委員長“情熱”の見送り」から引用します。
夜の羽田空港には、自民党の吉田派はもちろん岸派、石田(博英)派の議員もほとんど見られなかったが、社会党の浅沼委員長の大きな図体が目立った。自民党の代議士から「君は羽田と砂川と行く先を間違えたのではないか?」などとからかわれたりしていたが、それでも浅沼委員長、自民党の岸幹事長よりは“情熱”をこめた調子で「早期妥結に成功するよう祈る」と首相の出発にあいさつを送った。(引用おしまい)
浅沼も、河上丈太郎同様に国民から愛された野党の党首でした。鳩山の両国友好・人道問題解決の旅を支援するため、羽田に足を運んだ浅沼への社会党内の反発だって少なからずあったやもしれません。それでも浅沼は行った。彼は後年、右翼の狂信者に暗殺されますが、刺される直前の演壇でも日中の国交回復を声高に訴えていたそうです。
河上丈太郎、浅沼稲次郎、そして加藤紘一が示した政治家の本分。野党の国会議員にはちゃんと考えてみてほしいと願います。