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2017/01/08

大河ドラマ「おんな城主 直虎」とSNSオカルト

口をあけた地獄・直虎

今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」が始まりました。まったく期待していません。
理由は以前に述べたとおり。事前の番宣としてあらすじを並べたと思われる「歴史秘話ヒストリア」で主人公の紹介をやってましたけど、死ぬほどつまらない小人物のエピソードがてんこ盛り。始まってみりゃ、視聴者が性格どころか境遇すら、まだ把握していない子役に試錬の山盛りで、どう共感しろというのか。相変わらず視聴者無視して自分勝手なシナリオ書く人だこと。
どうせチーフプロデューサーは何にも対処しないから、改善は見込めません。視聴者の皆さん、1年間の地獄へようこそ。
今年の大河感想は以上です。本ブログでは、これ以上付き合うつもりがありません。看過できない重大事故等が起これば別ですが、よくなりようがない物について語るのはムダです。
気になるのは、どうしようもない駄作の世間相場をかさ上げする、または逆に見てもいない輩が貶めるネット上の偽装工作と、それに無自覚に乗っかる流行です。その点への注意喚起をもって、今年の「直虎」への感想を終了します。地獄へようこそ。

水素水・マイナスイオン・大河ドラマ

最近のテレビドラマの評判は、SNSによって大きく左右されるようです。昨年の「真田丸」がおおむね好評だったのは、ネット上の応援団の力が大きかったのだと思います。矛盾だらけの時空・歴史の改訂物語にもかかわらず膨大な収入を稼いだ映画「君の名は。」もそのたぐいだと考えます。
一方でこの現象は、視聴者個人の主体性が問われずに、大勢に流されることで感性を鈍磨させる問題をはらんでいます。
昨年末、水素水なる健康商品が何の効果もないことが立証されました。科学的裏付けが存在しない代物が流行した消費者側の理由があります。
「ネットでそう言ってたから」
ちょっと前のマイナスイオン、古くは紅茶キノコといったオカルトに人はなぜだまされるのか。たいがいはメディアに乗せられた結果でした。今や新聞・テレビをしのぐ最大の影響力を誇るメディアに成長したインターネットは、万人がコストをかぶることなく情報を発信できる強力な訴求力を持っています。それじゃ、その情報は善意から発せられたものであるのか、といえば話が違ってくるんですね。NHKドラマDVDのバナーがサイト内のどこかに貼ってあるくせに大河ドラマをホメ倒していたら、記事は広告だと判断して鵜呑みにしちゃいけない。NHKからカネもらっといて、公正な評論などありえません。あらすじに茶々入れてお茶を濁すだけでホメているような文章があれば、ステマと考えて良いでしょう。
話を「真田丸」に戻すと、長澤まさみ・高畑淳子といった女優陣への批判が、一時ネットをにぎわせました。これは大手産業メディアの運営サイトで、「業界のプロ」と称する肩書を持った人物が、談話として喧伝するなどしたせいでしょう。ネット民が乗せられたわけです。俎上に載せられるべき脚本家の乏しい女性観の代わりに、立場の弱い役者が責められた悪例として記憶されていいでしょう。
一昨年の「花燃ゆ」の際には、「大河は女性主人公をやめろ」という乱暴な論調もありました。責められるべき脚本や制作者の無知ではなく、ジェンダーの問題にすり替えられたわけです。無知な作品を、見てもいない無能な評論家やライターにいじらせたデタラメな主張であっても、世間には真に受ける奴がいます。「直虎」でも同様の話題が出てきそうです。視聴者はデマに踊らされることなく、脚本の内容や制作側の態度といった作品本体からの自らの判断で、駄作を駄作だと判断したいものです。もちろん、視聴を重ねた上で傑作だと信じるのもアリです。

他人に乗せられる危険

多数の支持、もしくは支持を装った水素水、紅茶キノコ、「真田丸」といったオカルト信仰が、最近に始まった物ではないのはご承知の通り。昔は「バスに乗り遅れるな」、戦前は「一億火の玉」と言われました。自分の頭で考えない、思考の放棄が生む悲劇の歴史でもあります。
かつての日本映画界に、増村保造という監督がいました。邦画の革新を叫び、ベテラン成瀬巳喜男にケンカを売るような先鋭的な人間らしく、開高健のメディア批評問題作「巨人と玩具」を娯楽映画化しました。興行的には大映の記録的な大失敗作です。1958年7月21日付の読売新聞夕刊「月曜ジャーナル」から引用します。
増村保造監督作品「巨人と玩具」が大映の本年度封切映画のなかで最低限の興行成績を記録しそうだという。作品としては決して最低ではない。それどころか有望な新人監督の手腕を存分にみせて、大映作品のうちでは上位の映画でさえある。それがどうして観客に迎えられないのであろうか。
その解答のひとつに世代いうものを考えてはまちがいだろうか。松竹作品「楢山節考」もこれにまさる冒険な企画であったが、りっぱに観客の動員に成功した。これは作品には技巧をこらしても木下恵介監督がもつイデオロギーがごく平凡なのに対して「巨人と玩具」には増村監督のひどくとぎすまされた先鋭的な感覚が、作品の思想内容にまでしみこんでる結果、全面的にギラギラしたものでおおわれて、大衆がスムースについてゆけないからではあるまいか。
これは彼の前作「暖流」や「氷壁」でもいえることで、原作が行間(ぎょうかん)にもつニュアンスなど大胆に切りすてて映画化するが、この場合には彼に料理されてもまだどこかに岸田国士、井上靖という作家が残っているので助かるのだ。それが新時代の作家開高健と結びつくと、そこにはっきり得意な世代がかたち作られてしまうようだ。
終戦直後の疾風怒とう(涛)の世界で教育されたこの世代は、戦前派とも戦中派ともちがうのはもちろんだが、今日の映画人口の大半を占める20歳前後の世代ともまた大いに異なる。敗戦日本ではあるが、おちつきを見せはじめた社会で教育されたこの世代は、もはや戦後派ではない。彼らはそれほどナマナマしいものに魅力をひかれないと思うのは、記者の独断だろうか。そこに彼らが増村作品にソッポをむく原因があるように思えてならない。(引用おしまい)
読売新聞記者の世代論には、完全に誤った強引さ・傲慢さを感じます。「女を大河の主人公にするな」と言い放ったライターと同じレベルの幼稚な論拠。でも、大新聞にそう断じられれば、信じる奴は大勢います。
この作品、今見ると結構面白いんですよ。野添ひとみの女優キャリア中、最高傑作ではないかと思います。増村保造の構図や画面の切り替えにもシャープなカッコよさがあって、テンポも良い。でも、ヒットメーカーにはなれない、興行に向かない増村保造のイメージも固めてしまった一作ですね。読売が印象操作に果たした役割の程度は不明ですが、影響力は小さくなかったはず。
頼れるのはネットじゃない、ネットではいけない。信じるイワシの頭は、ステマサイトや悪口ライターではないし、もちろんこんなブログでもない。自分の目と頭がすべてです。「直虎」が恐ろしいほどの駄作になると、ここでは確信の太鼓判を何度も押しているけれど、ネットに流されず侵されず、脳みそからオカルトを押し出して、しっかり鑑賞して、判断を下しましょう。たとえ投げ出したくなっても。
さあ、地獄へようこそ。

追記:「お前こそ『直虎』ちゃんと全話見ないうちに断じるな」というご意見はあるでしょね。根拠は本文リンク先にある通り。「ごちそうさん」が根拠です。