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2016/12/04

M-1グランプリ優勝・銀シャリに漫才の防波堤役を求める

銀シャリ、M-1グランプリ優勝おめでとう。
かつては、集めた語彙をむやみに使いたがって上滑りしていたツッコミの橋本直さん、劇場での漫才・大切な賞レースの度に大失敗するボケの鰻和弘さんを、何度も何度も何度も目の当たりにしてきたので、優勝がコールされた時には少し泣けました。ウナギ、努力したんだな〜。
このブログで以前からさんざん推してきた和牛の最終決戦進出も納得です。従来の持ちネタと違う変化球を続けたのには驚きましたけど、テイストは十分に発揮したんではないでしょうか。ここのツッコミ、いつ見てもうまいわ。人気が出すぎると、来年から単独ライブのチケットが取れなくなるんで困るんですが。
このトシまで、漫才の本筋はしゃべくりにあってドツキや単純なギャグの連発、露骨な替え歌ものは邪道である、と思ってきたんですが、選考基準にあまり関係なくなってきているようです。自分のセンスが古くなってきたのかな。古いセンスで言わせてもらうと、そんなんに頼らんと新味を見せてくれた相席スタートというコンビには注目しておきたいところ。まだまだ荒削りだったけど、今後もっと洗練されてくれば爆笑が連続で取れるようになるんじゃないでしょうか。
敗者復活戦から見ていて気になったのは、「殺す」「死ね」といった言葉が、漫才で普通に使われていた点。楽しい舞台が殺伐としちゃうんですよ。「この野郎!」というのも引っかかりました。
さらに、漫才師たちの間で、ツッコミの役割が軽視されている印象があります。汚い単語と言い回しを投げるツッコミが多く、また、消化できていないボケの言動を、ツッコミが説明して補足するパターンがやたら目につきました。選んで磨いた言葉をしゃべくってお客を笑わせる本来の漫才ではありません。その辺でイキってる中坊みたいな舞台は、して要らんねん。
コンビが助け合うのは大切ですが、互助前提のステージはごめんです。ボケはツッコミの仕事を認識し、ツッコミがボケの裁量を把握していれば、ネタづくりの段階での交通整理もできて、より洗練された芸を発揮できるのではないか。
今日は、1962年より放送され、全国的な大ヒットを飛ばした朝日放送の「てなもんや三度笠」に出演した白木みのるさんの例から、芸人がボケ・ツッコミの双方を学ぶ重要性について考えます。
吉本興業のタレントとして、関西のお笑い番組に引っ張りだこだった白木さんは、朝日放送の沢田隆治ディレクターから新番組への出演を持ちかけられます。しかし、その条件は「てなもんや」への専従でした。関西では人気者だった白木さんは抵抗します。その経緯が描かれた1970年10月1日付の読売新聞「テレビと共に タレント繁盛記」より引用します。
(前略)作家・香川登志緒氏は「“てなもんや”以前の白木みのるは、いずれも“ませた子役”として重宝がられたにすぎません。彼が大きく成長したのは、それまでにやったことのない“突っ込み役”で藤田まことにぶつけられてからです。“てなもんや”に出ていなければ、いまのようにボケと突っ込みの両方がやれる数少ないタレントにはなっていなかったでしょう」といっている。
藤田まことは、出演中の多くの番組を整理したうえで主役に起用されたのだが、そんなことは思いもよらなかった白木は、スタート直前に大衝撃を受けた。昭和37年の5月、「てなもんや三度笠」に出演が決まった白木は、沢田隆治ディレクターや吉本新喜劇の仲間を自宅に招いて誕生パーティーを開いた。この日は、三橋美智也からワンマンショーのゲスト出演を依頼されるという二重のいいことがあった。彼が夢にまで見ていた東京の大劇場の舞台に10日間も立てる。白木はこの幸運をパーティーで披露し、一同は乾杯してケーキを切った。その直後、沢田ディレクターが開口一番「東京の大劇場の10日間にかけるか、テレビの新番組にかけるか、どちらかにキメてほしい」といった。新番組1本にかけてくれればスターにする自信がある。しかし、ワンマンショーのひき立て役で満足するつもりなら起用しない、というのだ。白木と沢田ディレクターの議論によって、招かれた客は酒にも手をつけず、1人去り2人去り、ついに白木と彼の両親だけになった。ディレクターの話はそのまま深夜まで続いた。
白木は「芸人は自分の力だけではなかなか上にあがれるものやない。確かに、だれか引っぱってもらえる人がほしかった。それがこの人なんやと思いました。そして“鬼の沢田”といわれる人の恐ろしさに、ふるえあがりました」という。(引用おしまい)
名演出家・沢田隆治氏に目をかけられた白木さんは、大議論の末に他の仕事を断って打ち込んだ公開放送コメディ番組で、初体験の強烈なツッコミで藤田まことのボケにこたえ、全国的スターになりました。芸の力がアップすれば、引き上げる人も沢田さん以外にも大勢現れます。笑いの演者が人を笑わせるために、その構造を知るのは至極当然だといえるでしょう。学習なく、下地なく、ただただエキセントリックなネタを演じれば客席がわくと思い込むのは、漫才師のおごりであり、賢明な観客への侮辱でしょう。
奇をてらわずオーソドックスな漫才を突き詰めてM-1に挑んだ銀シャリの優勝が、若手漫才師たちの姿勢に一石を投じる快挙となれば、こんなにうれしいことはありません。東京のテレビに妙な形で消費されて消耗していくことなく、今後も正道の面白い漫才を見せて下さい。