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2016/10/10

「真田丸」第40回感想 「ゆきゆきて、幸村」


国政タブーの放送局


9日の「真田丸」終了後に総合テレビで放送された「NHKスペシャル あなたの家が危ない」は、熊本地震のデータから住宅の耐震基準の見直しを訴えるものでした。
最新の基準を満たしていた住宅が次々と倒壊した事実を調べ、「地震地域係数」なる概念を挙げて、家屋の安全について考えるという内容。
価値ある番組だったと思いますが、一方で、それじゃあ活動期に入った日本列島にゴロゴロしている数十年前に建てられた原発の地域係数はどうよ、とのテーマに公共放送は決して立ち入ることがありません。少なくとも現在のNHKは、国政が絡む問題に一切手を染めません。先日終わった朝ドラ「とと姉ちゃん」でも、雑誌編集長のモデルとなった「暮しの手帖」の花森安治の反戦・反権力嗜好が限りなく薄められた結果、彼のユーモア感覚の描写までが失われ、人としての面白みに欠ける、ただのモーレツ編集者像が朝の8時から茶の間をウロウロするはめになりました。
大河ドラマでは、かつて橋田壽賀子さんが持ち込んだと思われる“平和を実現するためのいくさ”というエクスキューズがまま利用され、「真田丸」でも織田信長の統治手法を「比類なき武力を持てばそれが抑止力になる」なんて、好戦国家や核保有国がこね倒したがごとき理屈を滝川一益に言わせていましたけど、脚本の三谷幸喜さんは政治的な主張を作品に反映させる人とは思えません。たまたま無意識で、話を進める方便に使っちゃったんでしょう。
お尻が見えてきた「真田丸」に、そんなイデオロギーを開陳している暇はありません。ここまで、さしたる活躍をしてこなかった主人公を、最終回までに輝かせる作業にまい進せねば、お話が先に進みませんから。真田信繁が改名して死地へ向かう分水嶺となる第40回「幸村」を見ましょうか。きっとカッコいいぞ。

戦国の稲田朋美、「きり」


結論を先に言うと、「真田丸」に堺雅人さんは不要なんでしょうか。何なの、前半丸々費やした片桐且元ワンマンショー? 且元役の小林隆さんは悪くない俳優です。「シン・ゴジラ」でも、真摯に自衛官を演じていました。凛々しくて良かったですよ。三谷さんは劇団で同じ釜の飯を食った仲だけに思い入れも友情もあるのかもしれませんが、秋風吹くこの季節、堺さんのストーリーにしなきゃ、河のごとく流れる戦国武将の人生を描く「大河」になりませんよ。もはや脇役のクローズアップにかまけている時期じゃありません。家康が出した和平3箇条が実は且元の自作自演でしたって解釈、新しいでしょ、さすが三谷ドラマなんて喜んでるアホな視聴者なんかいませんってば。
それらをことごとく回想として演出したから、これがまた見づらい。独白やフラッシュバックの多用は、時間軸を止めて過去に引き戻します。視聴者はまだるっこしくてしょうがないんだわ。特に今回は、作品の過去帳に載った人物を、最後に秋のゾンビ祭りよろしくオールスター出演させたもんだから、時間の秤がバランスを崩して停滞。10話を残して真田の次男坊がやったのは改名のみ、という恐ろしい回となりました。
参戦を拒む信繁を翻意させたのは、これまでの展開にほとんど貢献せず存在理由を疑われていた、まさかの「きり」でした。
「行きなさいよ。助けを求めている人たちがいるんでしょ。やってみないとわからない。ここで一生を終えていいの? あなたは何のために生まれてきたの? 大事なのは、だれかがあなたを求めているということ。今まで何をしてきたの? この世に生きたというあかしを何か一つでも残してきた? 何もしてないじゃない。何の役にも立っていない。だれのためにもなっていない」
ホルムズ海峡の機雷掃海、南スーダンの駆けつけ警護にだって行け、と言わんばかりにアジること、アジること。大いくさに敗れ4等国に没落した国家(真田家)が、真田紐という工業製品を得て国民(家族や残党)が自活できるまでになり、産業立国として自立した矢先に戦争に行けと。どこの国だ?
現在、国会では「子ども手当の社会保障費をそっくり防衛費に回せ」と過去にのたまった稲田朋美防衛相が野党から追及されていますけど、あまりのシンクロっぷりに視聴者失笑です。政治色を感じることの少ない三谷シナリオ、政治カラーにナーバスなはずの公共放送コードからすれば異常なセリフ。放送センター20階より上のはるかな空から、こたびの「稲田設定」にかかわる、なんぞやのお達しが降ってきたのか。それとも単に行き詰った脚本家が安易な好戦趣味に逃げたか。何がどうなって、結果こうなったのかナゾですが、あまりにあからさまでまぶしい永田町色によるドラマの破たんに、お茶飲みながらケタケタ笑っちゃいました。

ワダベンとドラマ地域係数


本欄では早い時期から、本作の問題点として主役の存在感の薄さを挙げてきました。芯があって、あくまで我が意にて決断できる人物がドラマの中心にどっかと座っていれば、戦中三文小説に出てくる銃後の母みたいに豹変した幼なじみが演説ぶつ必要もなく、幸村(信繁)は設定の破壊を免れて、晴れ晴れと大坂へゆきゆきて進軍できたはずでした。
40回を数えて、主人公の腰を据えられないのは、制作現場におけるコントロールタワーの不在ではないかといぶかる次第です。脚本家とのコミュニケーション、俳優とのやり取り、ひいては制作予算の使途計算……。真田丸という船のコンパスを読む船長の姿が見えず、視聴者はその進路に不安を抱えています。プロデューサーでもディレクターでもいい。だれかおらんのか。
今日は、強烈な個性とリーダーシップをもって幾多の秀作を送り出し、“芸術祭男”と呼ばれたNHKのドラマディレクター和田勉の姿勢から、「船長」の役割について考えてみます。制作が難航した大河「竜馬がゆく」に救援登板したころの1968年3月16日付の読売新聞夕刊のインタビュー「当たり! この人にきく」から引用します。年号は昭和です。
(前略)――めったやたらに本を買い込んだあげく、2Kの公団住宅が本でいっぱいになり、別に部屋を借りてそこに住んでいる。
――2日に4時間眠れば十分と称し、1晩おきに徹夜して勉強している。
――俳優をリハーサルでしごき上げる。「いまのキミの演技、百点満点でいったら5点だ!」などとズケズケこきおろす。
こうした伝説は、いずれも偏執狂的なまでのテレビへの情熱を物語る点で一致している。芸術祭参加が10本、うち奨励賞を受けたもの8本。これだけ参加を続けるという演出家は、民放をふくめても彼一人だけ。
(中略)今月の初め、彼の身の上に二つの事件が起きた。一つは、42年度芸術選奨を受賞したこと。もう一つは、NHKの看板ドラマ「竜馬がゆく」の演出を引き継いだこと。この二つである。
「竜馬は照明を当てられた人物ではなく、発光体でなければならない。登場人物が見る竜馬ではなく、視聴者が見る竜馬、視聴者と直接かかわりのある竜馬でなければいけない。ということは、竜馬のクローズアップしかとらないということです。そして、発光体としての竜馬があったその時、周囲の日本はまっくらな状態だった、というように進めてゆきたい」
「役者にもどしどし注文を出す。われわれスタッフが、役者にのしかかる。役者はそれとたたかう。そこでテレビドラマができる。脚本についても、テレビドラマとしてどうなのか、ということだけを考えてゆく。要は人間そのものをたたき出すこと」
テレビドラマは心意気で作るものだ、というのが持論である。
「だが、“心意気”は技術がなければ出せない。こんどの『竜馬がゆく』では、その技術を問われることになるでしょう」(引用おしまい)
ガハハハ、というバカ笑いが聞こえてきそうなワダベン節です。この自信はどっから沸いてくるんでしょう。その裏付けが、猛烈な学習とテレビ屋としての意地、職業意識にあるのは間違いありません。主役を「発光体」と位置づける演出意図は、「真田丸」にもっとも求められる要素です。
ワダベン全盛期と今とでは、労働環境も俳優との契約条件も違うのは理解できます。しかし、土台が揺れっぱなしの現在のテレビ劇基準に、視聴者は不安を感じているんです。放送局と視聴者ともに安心して航海を任せられる現代の船長に大河の舵取りをさせるには、昔を振り返った上で、新たなドラマ地域係数を算出せねばならぬのではないでしょうか。