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2016/06/20

「真田丸」第24回感想 「テレビ劇の滅亡?」

本当はこだわる小日向文世

16日付の朝日新聞夕刊のコラム「三谷幸喜のありふれた生活」に、前週の「真田丸」でのプロットのてん末が書かれていました。
小田原征伐で、信繁を活躍させたいと思った。この戦に参加しているのは確かだが、どんな役目を果たしていたかは、定かではない。そこで、「北条氏政に降伏を促すため城に潜入」というエピソードを思いつく。だが実際は降伏の交渉をしたのは黒田官兵衛。史実は曲げられない。
(中略)では、なぜ家康は信繁に託したのか。そこからは僕の仕事。その前の回で、秀吉の前で信繁と舌戦を繰り広げた、北条の外交担当板部岡江雪斎と、家康の軍師本多正信を思い出す。信繁の知恵と度胸に惚れ込んだ彼らが動いたことにしよう。こうしてようやく物語が動き出す。そんな感じで毎回やっています。(引用おしまい)
なるほどね。これまでもストーリー優先に過ぎる作劇の物足りなさが本作の欠点である旨、具体的な場面場面から述べてきましたけど、コラムのくだりから、物語の展開が第一義である執筆の嗜好が垣間見られます。
氏政電撃訪問を行なってまで北条家の存続を願った徳川家康からすれば、沼田城が小田原の大将の手に渡る裁定の方がありがたいはずなのに、本多正信が真田信繁の肩を持つ時点で人物造形に失敗しています。お話づくりに猪突するあまり、失敗したキャラクターの挿話を土台に屋上屋を重ねる誤りは、役者にとって悲劇です。登場する回すべてを一貫して演じようがない。
このブログでは再三、小日向文世さんの秀吉がつまらんと書いていますが、それは小日向さんの責ではなくシナリオに負うところが大きい。小日向さん主演の映画「サイドウェイズ」を見た時、スクリーンにいるのが架空の主人公だか、俳優小日向だかわからなくなるくらいの入り込んだ好演にうなりました。その撮影日記「小日向文世 アメリカへ行く」(ぴあ刊)によると、キャラクターについては決定稿まで「とことん議論した」とあります。上手く仕上がるはずです。それだけ役にこだわるアクターでも、テレビじゃそんな手間暇はもらえないだろうし、寛大・小心・狂気といった性格が物語の都合次第で理由なく、くるくる交代する大河ドラマの秀吉では、役のつくりこみなど不可能なんでしょう。
すでに名声と実力を認知されている俳優たちが、テレビドラマで芸能を披露する意味は、果たしてあるのか。今日の「真田丸」第24回「滅亡」の感想テーマです。

混乱する武将キャラ

真田信繁なあ……。このところ歴史ドラマの表舞台に引っ張りだそうと、でっかいステージが続けざまに支度されています。成長過程も政治センスの習得も描かれてこなかった若者が、日本史の節目にばんばん収拾をつけていく様を続々見せられる状態に視聴者が混乱するのは当然ですが、演じる堺雅人さんは疑問を呈せず仕事ができているんでしょうか。能力不詳のまま周囲に持ち上げられてよくわからない活躍をするのが、ここ数年の大河主人公のお家芸。公共放送脚本の決まり事なんでしょうか。
北条氏政は敵兵・信繁の戦況報告をにわかに鵜呑みして、独白にて突然のキャラづくり。室賀正武以来続く、急ぎばたらきの茶の間向け共感ゲットオペレーションですね。かつてナンシー関から、その演技を“ぬいぐるみ”と呼ばれた高嶋政伸さんのハマり役となりました。ベタベタ芝居が呼び込んだ狂気。今後はポップカルチャー系の仕事にシフトすれば演技力が生かせるかも。
氏政を慰める会が開催されました。徳川家康・上杉景勝・真田昌幸の豪華メンバー。前回、名前を挙げられた前田利家は本作ではスルーされる模様です。北条との交流が事前に描写された家康はともかく、氏政最後の大名面会が、上杉&真田ってのはどうよ? いきさつからして、負け犬の顔を面白半分に拝みに来るような関係ですが。
名のある俳優さん方は、こうしたテレビ的唐突シーンをいかな思いで過ごすのか。遠藤憲一さんは食えない無名時代に、時代劇ヒーローにたたっ斬られる痩せ浪人や凶悪な盗賊役をもらって糊口をしのいだ経験があるから、テレビに恩義を感じているんでしょうか。
草刈正雄さんはどうでしょう? 「真田太平記」では信繁役でしたが、あれは第1回冒頭から城への帰路に危険な早道を選ぶ弟、安全策を取る兄と、人物造形に気を遣った作品でした。こちらではキャラ投げっぱなしのまま、宿敵北条氏政と対面させられる出演場面の演技プランは難しかったでしょうね。
後半は、伊達政宗の視聴者お披露目会となりました。沼田を含む真田の領地安堵、徳川の与力御免を申し渡す秀吉の心理とその経緯がナゾです。信繁探偵ショーの際のクレイジー殿下はどこへ行ったものか。小日向さん、議論できないジョブはつらいね。正宗を演じる長谷川朝晴さんも名の通った中堅ですけど、「20年早く、もっと京都の近くに生まれてりゃ、オレは天下を取ってたぜ」の中二病セリフで、独眼竜台無しです。時代ドラマでこれはないわ。登場早々のキャラ崩壊。映像劇の根幹であるスクリプトに、出演俳優は意見が言えないものでしょうか。議論の余地はないのですか。

高峰秀子が喝破した本質

視聴率至上のテレビが、人気者を求めるのは当たり前のこと。CMもそうですね。役者がコマーシャルフィルムに出る動機はカネです。タレントは商品。芸能事務所やそこの職員だって食わなきゃいけない。需要あらば悪いことではありません。では、テレビドラマには何のために出演するのでしょうか。ライブですぐそばにいる観客に対し本領が発揮できる舞台、テレビほどの時間的制約がない映画に比べ、テレビで顔を売るメリットは、俳優自身にとって何か。やっぱりカネなのか。
テレビドラマ自体を否定する意図はありません。伝えたいテーマや俳優の名演技があれば、視聴者は満足感を与えられますから。海外でもローレンス・オリビエ、ダスティン・ホフマンら高名な芝居上手が出ています。
戦前戦後を通じた大映画スター高峰秀子は、テレビドラマ出演に懐疑的でした。やっと1960年代終わりに禁を解くまで出演を断り続けました。エッセイストとしても一流だった高峰がテレビ劇についてつづった一文に、今も続くと思われるテレビドラマ制作態度の主潮を撃つ、俳優ならではの厳しい目を感じることができます。1964年10月9日付の朝日新聞夕刊への寄稿「テレビ・ドラマに出ないわけ」から引用します。
「なぜテレビに出ないのですか」--1日に一度くらいのわりで、私はこうきかれる。私がテレビに出ないことがそんなに不思議なことなのだろうか、私にはそれが不思議である。出なければ出ないで、テレビ局はあの手この手でせめにくる。「出演料なら出来るだけのことをいたします」「私の局では全国2千万の視聴者を持っています」「企画、時間、スポンサー、すべてご随意で結構です」……。
どれも、これも、私には関係がない。私は断然出ないのだから。
(中略)「出ない」ただ、それだけの理由で、私は「テレビぎらい」というハンコを押された。すると今度は「テレビはおきらいだそうですが」の質問ぜめにあう。好きなら「出て」、「きらい」なら「出ない」。ただそれだけの理由で片づけられるものだろうか。私はテレビが「おきらい」ではなく、テレビが「こわい」のだ。恐ろしいのである。
自分の職場のことについて、ものを考えたり、いったりすると、どうしても我田引水になる。が、映画界で育った私は、テレビに出ないことによって、あくまで第三者の目でテレビを見ることが出来る。テレビのインチキ性、テレビ・ドラマの練習不足による、または、やっつけ仕事のわびしさ、人をバカにしたアチャラカ(注・戦後流行した軽喜劇、コント)、聞くにたえない歌、茶の間には不向きなエロやグロ……私のこわいのは、テレビ出演者の目、つまり目の玉である。
その目は、あるときはセリフを忘れたとまどいの目であり、あるときはうつろな金かせぎのための目であり、あるときは人をバカにした思い上り(ママ)の目である。俳優を職業とする私には、それらの目にぶつかるとき、わが身を鏡のなかにみるようで身の毛がよだつ。役者のてんてこ舞は、いうなれば私自身のてんてこ舞であり、役者のごまかしは、つまり、私のごまかしだ。テレビ・カメラのレンズは骨のズイまで写し出すものか、と私は思う。
テレビに出るには「かくご」がいる、ということがわかればわかるほど、私は自信がなくなるのだ。テレビなんてものはしょせん「そんなもの」でいいのかも知れないが、私にはどうしても納得がゆかない。そういうことにこだわるのはおトシのせいかもしれないが、この年になって恥をかく気にもなれない。
私はテレビが「きらい」なのではなくて、「こわい」のだ。(引用おしまい)
高峰秀子が恐怖を覚えたテレビ、つまりは番組制作の姿勢は、「真田丸」をはじめとしたテレビドラマから解消されたとは思えません。脚本家のコラムからは、むしろ増幅しているのではないかとさえ感じられます。他人に自分を見せる仕事は、見られる商売。出演者が「そんなもの」でいいと納得して出る番組が面白いはずはありません。
そんな俳優が懸命になれる仕事場づくりが、NHK・民放問わず考えられても良い時期ではないでしょうか。高峰秀子が見た出演者の目の玉を、視聴者にさらして構わないプロの俳優などいるわけがありません。立派な俳優を集めた映像劇が本当に立派になるには、本の改良、仕事環境、議論といったフィールドへ打って出なければいけないんだけれど、作り手が難攻不落だと誤解したまま、精神の小田原城にこもったきりでは、テレビジョン発の劇が滅亡するのを待つばかりとなりましょう。