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2016/05/18

「真田丸」第19回感想 「恋路じゃなくて迷路」

蜷川幸雄が感じた芝居の腐敗

先日亡くなった演出家蜷川幸雄のインタビュー本「演劇ほど面白いものはない 非日常の世界へ」(PHP研究所)に、1970年代初頭に蜷川らが立ち上げた劇団「櫻社」に関する逸話がありました。
僕はいつも劇場のいちばん後ろの壁に突っ立って、お客さんを見ながら、舞台を見ているんです。
すると、本当の意味で、芝居の中身が客席に届いているのだろうか? 面白がってくれてはいるけど、彼らが本当に待ち望んでいるものなのだろうか? 心から感動していないのではないか? しだいに、そんなふうに思えてきた。
それは舞台を見ていて、僕の演出が自己模倣というか、いままでやってきたことの繰り返しにすぎなくなっていると感じたのです。また清水邦夫(注・劇作家)の戯曲もそうだし、俳優もみんなセリフに合わせて、上手くできていくようになっている。つまり、人気が出ていくうちにいつしか、マンネリに陥っていた。
(中略)劇場の壁際で、清水と一緒に芝居を見ながら、ちょっとな、おれたちの芝居も腐りはじめたなあと、そんな会話を交わしていたんですね。(引用おしまい)
その後、櫻社はホームグラウンドの新宿から撤退、解散するのですが、「真田丸」には、蜷川のような“壁際で観客(視聴者)を見る”目付の不在を感じてしまうのです。盛りだくさんのイベントを話をつないで1話を収める、その場を面白がらせればいいという程度の視聴者をナメた脚本、この脚本をただただ画にする作業をこなす演出、人間ドラマではなく史上のビッグネーム登場を売りにする番宣。作劇の目線が、視聴者という人間ではなく、視聴率という名の数字にあるといぶかしめるドラマになっています。第19回「恋路」も残念ながら、その感を抱かざるをえない出来でした。

演出家の思考停止

今回、茶々が周りの男性を死に至らしめているのは、その無邪気になく確信犯であったことが判明しました。秀吉の前で「また蔵に行こう」と真田信繁を誘った直後、それが失言であることに自ら気がつきました。愚鈍な女ではないとの証左。小悪魔ではなく大悪魔女子でした。周囲の男どもを次々と亡き者とするのがホビーなんでしょうか。400年前の女性が爪にマニキュア塗ってやがる。手のクローズアップを撮るなら、事前に不自然にテカってるの、落とそうね。
キャラが軽いと懸念してきた豊臣秀吉は、いよいよダメ関白になって参りました。天下統一大詰めの大事な時期、頭の中にまるで“政治”がありません。アーパーギャルを側室にする計略に執心、正妻に相談するの愚者です。このゲスの極み殿下の人物像、脚本家は面白いと信じて書いているのでしょうか。ベッキーの不倫騒動に目くじら立てている女性視聴者の意見を聞いてみたいものです。
ここまでのフィメールキャラ群の薄っぺらさ加減も考慮すると、三谷幸喜さんは女性の心理描写に興味が無いのだと推測しています。茶々が秀吉に傾く理由づけなど、女性の感覚としてはめちゃくちゃです。鈴木京香さんが、なんとか正室の複雑な思いを演技に乗せようと努めていますが、元の本がダメですから視聴者に届かないのが残念。
本多忠勝親子の中途半端な浪花節に尺を割いたこともあって、今回も主人公真田信繁は主体性なく周囲に振り回されるだけのキャラクターに終わりました。信繁がなぜ権力者に好かれるのか、との問いを2話前に投げかけておきながら、投げ散らかして終わりなんです、このドラマは。ラビリンスにはまっている。
演出家が脚本をどう映像化すればいいのか悩んでいるのが、クローズアップの頻度からうかがえます。悩んでいないのであれば能がない証明となります。
堺雅人さんのバストアップショットがやたらと多い。主人公と俳優の魅力を伝えるべきクローズアップが極端に少ない。脚本が信繁を血肉の通う人間として描けていないのが主因ですけれど、もう少し知恵があってもいい。昔の和田勉作品みたいにアップを乱発しろ、とは言いませんが、これでは堺さんの出演価値がない。監督者に脚本を画にするプランができていないのではないでしょうか。
画ができないから、にぎやかしに桜を濫用するのか。まあまあ、長野といい大坂といい、本作では桜の咲くこと、咲くこと。春雷が咆哮する荒天の後だって、葉桜になることなく秀吉と茶々のラブシーンに、文字通り花を添えます。バカみたい。この分だと大坂夏の陣の時も満開になってるんじゃないか。マニキュアの大写しと同じ、思考停止です。

「ビッグショー」と視聴者

本欄では散々言ってきましたけど、娯楽ドラマの演出家は仕事の先に視聴者を見ていなければ仕事になりません。媚を売るとの意味ではありませんよ。良作を届ける心意気です。それを考え続けるのがディレクター。
かつてNHKに末盛憲彦という演出家がいました。1960年代の音楽バラエティ「夢で逢いましょう」を大ヒットさせた仕掛け人です。末盛は視聴者をブラウン管に引き込むためのプランをもって、計算された演出を行いました。その一つが1970年代後半のテレビ史を飾った歌謡エンタテインメント「ビッグショー」。末盛がそのテクニックを披露した1976年8月8日付の読売新聞「ある系譜 末盛憲彦の“泣かせ術”」(桑原宏記者)より引用します。
歌いながら森光子が泣き出し、加山雄三は涙をこらえて「畜生!」と口走った。作曲家の吉田正さんも涙ボウダの一人。
NHKの「ビッグショー」に出演した人たちは、一様に感激する。「はて、なぜだろう?」と考えたら、末盛憲彦さん(演芸番組班チーフプロデューサー)の名前が目に入った。
温厚で口べたな末盛さん。しかし、この人は過去、きらびやかな歌の番組づくりにかかわってきた。
そして今、演歌人生に取り組んでいる。
(中略)“夢逢い”の後半、彼はアメリカのCBS局に留学した。新しいショー番組を開拓するためのエースだったのである。
「公開ステージで、観客をどうつかむかで、教えられました。その亜流はとりたくないのですが、“ビッグショー”で私が最初に考えたのは観客です」
例えば著名な指揮者、レナード・バーンスタインがホストをつとめる「ヤング・ピープルズ・コンサート」。カメラ2台が客席にだけ向けられている。お客の表情を克明に追っていいれば、ショーが面白いかつまらないか、手に取るようにわかる。
(中略)「シナトラの“マイウエー”は、彼の人生そのもの。美空ひばりの歌に通じます。1人の歌手、つまりベテランをじっくり追究すれば、万人共感の何かがあると思いはじめました」
人間描写、人生、歌を結びつけると、そこに演歌があった、という。
しかし、「ビッグショー」にはいろいろの味つけがしてある。ポピュラー、カレッジポップス、ナツメロもあるし、軍歌も出てくる。出演者も歌手に限っていない。歌える人、作曲、作詞家にまでひろがっている。大筋として公開録画のワンマンショー。VTR編集は行わない。
そしてここで、彼の観客操縦術がはじまった。
「ホールに来るお客さまに陶酔してもらう。これがきっと視聴者につながる。客席を暗くしました。客席の絵がとれないから定石にない。でも、暗いことで観客は“個”にひたれるはずです」
ワンマンショーの利点で、来客の目的はお目当てのタレントに集中している。
こうして観客が一斉に酔ってくると、出演者が仮面をはずし、地をむき出しにして乗ってくる。これが末盛さんの“読み”なのである。
半生をつづりながら森光子が泣いたのは、客席のすすり泣きに刺激されたのだし、加山もシーンとした客席からのはげましのひと声で泣いてしまった。
森光子が出演したあと、こんなことを語った。
「衣装も自前、45分間のセリフと歌をおぼえなければいけない。小道具も自分で運ぶ。ひどいことをやらせると思っていたのに、だんだんと乗って、もう最後は感情の高ぶりを抑えられませんでした。仕事では冷静な女だと信じていたのに、からめ手から攻められた感じ。でも、終わって、すがすがしかったですよ」(引用おしまい)
「ビッグショー」は、ワンマンライブの“陶酔”を茶の間に伝えるテーマとプランをもって、好評を博しました。観客から出演者を通して視聴者を見据えていた末盛憲彦の立ち位置は、蜷川幸雄が観客を見ていた壁の前に近しい。
蜷川は「演劇ほど……」の中で、「演出家とは何かというと、それは観客の千の目を代表している立場であり、僕自身、そういう自負はむろんあります」と話しています。「真田丸」は脚本の出来が悪いとはいえ、演出の工夫次第でまだましになる可能性が残されています。演出者には、視聴者の目を代表する自負をもって、臨んでほしいと願います。