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2016/04/25

「真田丸」第16回感想 「花燃ゆとの表裏」

群像劇を考える

1962年の東宝映画「女の座」を名画座で鑑賞しました。星由里子さん、三益愛子、淡路恵子ら豪華出演者は皆大好演。輝かんばかりの美ぼうでハキハキした芝居をする司葉子さん、宝田明さん相手にヨロメキまくる草笛光子さんの感情的な演技、ともに最高です。そこへ娯楽映画として作品を締める名優笠智衆と杉村春子に、これだけの人気者たちと共演しながら、他を圧する大スター性を銀幕に放ち続ける高峰秀子。名プロデューサー藤本真澄が力技で集めた役者が演じるそれぞれの人格をていねいに紡ぎだした井出俊郎・松山善三の脚本と、奇をてらわず淡々と俳優の魅力を引き出す成瀬巳喜男の演出によって、だれも手を抜くことのかなわぬ渾身の撮影であったことが易々と想像できます。これぞ群像劇です。
「真田丸」は、脚本家自身が「群像劇だ」と新聞のコラムに書いているんですが、登場人物が増えるにつれ、それぞれに情緒を感じることがほとんどできない状態に陥っています。感情といえば、小学校低学年止まりの幼稚な言葉が折り重なる有象無象劇。この辺りで進路変更願いたいところです。第16回「表裏」は、どうだったのでしょう。

おにぎり大河再び

豊臣秀吉と真田信繁との対面場面で、やっと季節感が視聴者に提出されました。クマゼミの鳴き声とおぼしきSEがかかっています。地球温暖化の影響からか、最近では関東にまで分布が広がったクマゼミですが、戦後しばらくまで大阪に広く生息する種ではなかったそうです。クマゼミの大鳴は、天正14年の夏が当時としては異常なまでの酷暑であったとのドラマ表現なのでしょうか。
この場で信繁が秀吉の馬廻衆に取り立てられる決定が発表されます。このころの信繁に関する史料はほぼないので、脚本家の創作自由度は上がってしかるべきなのですが、この飛躍は……。創作作業を否定はしませんけど、就職の前段を描いておかないと、勇壮なテーマ曲を流して糊塗しようとしても視聴者もかばいきれませんよ。
根拠なく他人に好かれる信繁。だれかに似ているな。ああ、まるで「花燃ゆ」の主人公じゃないか。「人結ぶ弟」ですか。
駄作映画「ギャラクシー街道」の遠藤憲一さん出産シーン並みの理不尽。このけったい極まりない人事は、1話丸々の捨て回となった「表裏」のプロローグでしかありませんでした。
リクルート先の職場に信繁を案内する片桐且元は、さすがに畳の縁を踏むような無作法な真似をしません。太閤の後ろを歩く石田三成は、ガンガン踏んでいくんだけどね。能吏らしくないなあ。
黄母衣衆に選ばれた信繁は、むちゃくちゃな人事への疑問や不満を呈することもなく、「かしこまりました」と勤務に励みます。こんな自我の無い主人公でいいのか。かと思えば、前回までみたいに、突然要らんこと言いの出しゃばりにも変身する。去年の美和とか文とかいう女に似てきましたね。詰め所の食事が、味噌も添えられないおむすびばかりなのは、おにぎり大河で今年も突き進みますとの暗喩なんでしょうか。

殺人鬼清正にアーパー茶々

「茶々が気に入った男どもを次々とあの世へ送る連続殺人鬼加藤清正。信繁がそのターゲットになったから、さあ大変」
今回は、これだけの捨てエピに延々と尺を取るだけです。池上彰さん司会のテレ東衆院補選生放送を見た方がよほどためになったと思います。良くなってほしいから「真田丸」を視聴するんだけどね。
新しさを感じたのは、猛勇を知られ、土木築城の名手だった加藤清正を酔っ払いのシリアルキラー設定にしたところ。折悪しく、震災により清正が建造した肥後のシンボル熊本城が甚大な被害を受けた直後に、弱者連続殺人犯にされるとは。ドラマの運の悪さ以前に、そんな人物造形をやるのであれば、前回、大谷吉継に「かわいいところがある」などと言わせて人格カバーしたあげく、泥酔の回想なんか入れるべきじゃないでしょと言いたい。
茶々もアーパーギャルとして破たんさせてしまいました。失意の信繁に、死んだ妻の話をしろと迫るセリフ一発で、この非常識な女は視聴者の共感を失いました。こんなものは群像劇じゃない。
ここは大坂城以外の別の場所ではないのか。まるで映画「アマデウス」のラストシーン。モーツァルトを殺したライバル・サリエリが入っていた病院内で、患者たちが大河ドラマを演じているかのような異常キャラ祭りは何なのでしょう。
信繁が感嘆するほどの秀吉の人格がまったく提供されない中、徳川家康も真田昌幸も、もはや邪魔者でしかありません。信幸に至っては、ただの大声状況説明役にまで格落ち。ドラマにかかわる存在意義を失ってしまっています。作劇に無縁のぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるピエロは、去年の小田村伊之助でたくさん。こんなものは群像劇じゃない。

役者を語れぬドラマ

テーマ不在、人物造形の崩壊、ストーリーの飛躍。このような作劇が続く限り、出演俳優への感想を控えざるを得ません。役者を作品の目玉商品として見てはいけない、ということです。無遠慮にけなせば、トガなき彼らに向こう傷を負わせてしまいます。かと言って、手放しにほめたらおかしい。まして群像劇となれば、全員に人格が与えられなければ、それと認定しての評価などできるわけがありません。
東宝の取締役でもあった劇作家菊田一夫は、俳優の扱いの難しさで苦労した人でした。長年の経験から、俳優という人種を分析し、扱ったそうです。1961年6月5日付の読売新聞夕刊への寄稿「よみうり演芸館 芝居づくり」から引用します。
(前略)芸能界ほど浮沈の激しいところはない。そしてまた浮沈ともどもに、それなりの理由が、芸能界ほどはっきりとしたところはない。“浮”を見るのはひとごとながら楽しいが、“沈”は胸がしめつけられる。あすはわが身の上であるかもしれない、と感じるからでもあろうか。しかも浮き沈み、それぞれの理由と原因はいろんな形で身のまわりにうろうろとうろついている。
努力をしながら、その足を力みすぎて踏みすべらせてころぶ人があり、反省過剰で考えこみすぎて暗夜のアナぼこに落ちる人もある。努力してうまい芝居をやりながら、落ち目になることもあるのが芸能の道なのである。が、なによりも珍しいコトワザは「役者殺すにゃ刃物はいらぬ。ものの3度もほめりゃよい」
私は興行師として、私の担当のもとにいる役者が世間から無条件にチヤホヤされることが一番恐ろしい。うまい役者に出演料を居直られることはなんでもない。ギャラをあげてやればそれでいいのだ。それでなくても浪費好きの私である。恐ろしいのは無条件にほめられ、チエをつけられて頭でっかちになった人間が、頭の重みに耐えかねて、足を踏みすべらせることである。寄ってたかってほめて落とすのは他人だが、立ち上がるのは自分一人である。(引用おしまい)
堺さんカッコいい、遠藤さん名演技、小日向さん渋い……。劇自体が語るべきレベルにない以上、おべんちゃらを並べるのは、俳優・視聴者双方にとって悲劇となります。「真田丸」出演中の草笛光子さんには、群像劇の名作「女の座」の想い出や体験を、周囲にどんどん語ることで、ぬるま湯を熱湯に変えていただきたい。より良いテレビドラマの放送を願う視聴者への最高のサービスともなります。