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2016/03/28

「真田丸」第12回感想 「テレビの人質」

俳優の気構え

杉村春子の自叙伝「振りかえるのはまだ早い」(婦人画報社)は、この大女優の高い職業意識、いや役者の業とも呼ぶべきすさまじい半生がつづられた一冊です。
いかなる舞台も無駄にしない、それが終われば次のステージに向けての万全の支度と飽くなき勉強。俳優は観客を芝居に引き込まねば気が済まないとの記述に、そのプロ根性が表れています。
あたしたちの若い頃、「お客様があおいでいる扇を止めさせることができなければ」って言われたものです。昔は冷房がないから、みんなあおぐでしょ。あたしたちは先輩からも、それから大道具屋さんや鬘屋(かつらや)さんにも、舞台のすべてを、いやっていうほど教えられたの。怖かったですよ。でもね、言われてほんとによかったと、今でも思ってます。
今でも旅なんか行くと、扇子使ってるかたあるんですよね。「やめないかな、やめないかな」ってそっちへ気が移っちゃって。だって見えるんですもの。動くから。でも芝居に惹きつけられると、スーッと止まるんですよね。(引用おしまい)
テレビだとさしずめ、視聴者がお茶を飲んだり菓子をかじる手を止めて、画面に集中してしまう状況を役者が作り出す、といったところでしょうか。テレビドラマにゃそんなことないって? それがあるんですよ。
先日の「鬼平犯科帳」再放送「雨乞い庄右衛門」(BSフジ)での小沢栄太郎演じる老盗が、すごいのなんの。演技がどうこういうレベルを超越し、その存在感に圧倒されて視線は釘付け。お茶飲むどころじゃありませんでした。小野田嘉幹監督もすっかりその気で、主役の萬屋錦之介をほっぽらかして全編小沢のクローズアップ祭りです。原作を大きく改変した脚本によるクライマックスの凄惨なチャンバラでは、昔の新東宝映画を連想させるグロい画面の中、小沢の悪鬼の表情をアップに次ぐアップで抜きまくります。俳優の力が客を引き込んだ快演でした。

脚本は役者を殺すな

「真田丸」第12回「人質」で、そんな役回りを得るチャンスがあるとしたら、上杉景勝役の遠藤憲一さんだったでしょうか。常に民の暮らしを思いやる心優しき武将。でも、うるわしい結果にはなりませんでした。脚本が人物造形に失敗したせいです。
とにかく優柔不断。領民の陳情は聞くだけで対策を施しません。真田信繁の沼田城安堵の願い入れも、殿様が家臣の直江兼続に一言も言えずオタオタしています。最終盤になって「沼田をもらう気はハナからなかった、テヘペロ」なんてセリフを直江に言わせて収拾を図りましたけど、夢オチみたいな安易な終わり方でした。
上杉の家臣ではない、たかが人質風情の信繁が、景勝を「お屋形様」(守護大名の家来が主君に使う尊称)呼ばわりする慇懃無礼っぷりもたいがいでしたが、供回りも連れずに人質主従と市中巡検へ出かけるお人好しの景勝や、人質の実家からの手紙を検閲もせずに届ける戦国名家上杉の情報管理の甘さを見せつけられると、遠藤さんがいかに熱演しようが、視聴者はバカ殿に共感できない心理にさいなまれます。
終いには、人質が他人の領地の揉め事に首を突っ込んだあげく、土地に長らく定着してきたトラブル解決の因習を罵倒して、行政官である奉行に一休さんよろしく言いがかりをつけ、領主を前に他人の地所でその民主的解決を演説。最初から策があるんなら、いちいち見知らぬ土地の風習にいちゃもんつけるのやめようね。立場を失った神主さん、画面の後ろの方で狼狽してましたよ。
「源次郎、でかした」と叫ぶ実家のお兄ちゃんもどうかしてます。上杉には沼田を奪取するつもりがなかったんだから、信繁の実質的な手柄はゼロ。無理に主人公を持ち上げようとすると、「美和様のおかげ」「美和、またやったな」が視聴者の不興を買った昨年の「花燃ゆ」みたいになりますよ。沼田安堵の帳尻合わせが、墓穴を掘ってしまいました。
余談ですが、お兄ちゃんは「意外でございます」「無理でござる」と、格助詞「で」を使いすぎ。語調が固くなるし、聞いていて気持ちがいいものではありません。「人質」は、ここまで見てきた中で最低回となりました。

淡島千景と杉村春子の仕事

自転車操業で制作が進むテレビ時代劇にあって、俳優は無茶な設定や脚本に物申す権利はないのでしょうか。女優陣にしても、毎度ながら彼女たちでなければ演じられないというものではない場面ばかりでした。テレビ俳優に人権はないのか、役者はテレビの人質なのか。テレビドラマがダメであれば、仕事を受けないという選択肢はないものでしょうか。
1988年、女優の淡島千景が紫綬褒章を受章しました。受章者発表時のインタビューを紹介します。同年4月28日付の朝日新聞「誠意を忘れぬ大女優」から引用します。
(前略)東京生まれ。宝塚を経て昭和25年、松竹入社。「美人でなければ女優になれない時代だったのに、わたしのようなファニー・フェースがいろいろな先生(監督)に使っていただいて」
「強いていうなら、それまで上映しても当たらないといわれた大阪ものが『夫婦善哉』以来、当たるようになったと聞かされるとうれしいわね。東京の女が演じて大阪女の心意気、浪花っ子の強さが認められるなんて不思議」
「自由学校」「やっさもっさ」「波」などの話題作、「駅前旅館」など駅前シリーズのレギュラーと数知れないほどの映画出演のほか、テレビ、舞台と精力的な活動が続いている。
「やるからには誠意をもってやる。いやなものをいやだと思いながらやるのは見る人に失礼ですから、好きになれるものだけやってきました。やったものはみんな好きです」。だから、「どの仕事が一番印象に残るか」とか「思い出深い作品は?」と聞かれるのが困るようだ。
「これからも、自分で納得できる仕事が来たらぜひ精いっぱいやらせてもらいたい。もっともっといい原作、脚本と巡り合いたいわ」と目が輝く。(引用おしまい)
淡島は仕事を選びました。それが女優として精神衛生上、最適である旨を語っています。「いやなものをいやだと思いながらやるのは見る人に失礼」「もっといい原作、脚本と巡り合いたい」との言葉を、現在テレビに出ている俳優たちはどう受け止めるのでしょう。
杉村春子の仕事への姿勢は、さらに厳しいものでした。根底には、空襲にさらされる都下での毎回の舞台に「これが最後かもしれない」と思いつつ臨んだ戦中の体験がありました。
通算上演900回をゆうに越えた代表作「女の一生」が700回に達しようとしていた1973年、杉村は毎日新聞のインタビューで、当時の苦労を語りました。同年10月31日付の毎日新聞夕刊「いま 私は…」より引用します。
(前略)初期のころ? ええ、あれは昭和19年、空襲がとても激しかったころです。3月10日からけいこに入ることになっていました。ええ、あの“東京大空襲”のあった日です。その前日の9日夜、ちょうどカオルさん(森本薫のこと、注・「女の一生」作者)が京都から上京して、東中野の私の家でおしゃべりしていたら、あの大空襲なんです。公演は築地小劇場(当時は国民新劇場と改称)でやることになっていたんですが、そのとき焼けてしまったんです。びっくりしましたねえ。
10日に、中村(伸郎)さんの家に集まったんですが、みんなボウゼンとしていました。だって、そのころたった13人しか残っていなかった私たちのために、役の数を合わせて書いてくれた作品だったでしょ。新劇の公演も、恐らくこれが最後だろうって、みんなで張り切っていたんですもの。そんなとき、久保田(万太郎)先生、渋沢秀雄さん、佐藤一郎さんのお3人が一生懸命奔走してくれましてね、渋谷の道玄坂にあった東横映画館劇場を、やっと借りて下さったんです。
みんな大よろこびでした。けいこは、久保田先生のお宅とか、伊藤道郎さんのスタジオとか、ほうぼうでやりました。空襲下だから、いつもだれかが欠けてましたよ。全員がカオをそろえたのは舞台げいこのときが最初だったんじゃないかしら。
初日は翌20年の4月11日。よくお話するんですが、鉄かぶとの行列ができましてね、はじめは雑炊食堂の行列かと思ったら私たちのお客さんだったんですよ。
でも、たいへんな公演でした。途中で何度も空襲警報があって、そのたびに中止するんです。お客さんはいったん外へ避難して、またもどってくる。だから昼夜2回のときなんか、興行時間に制限があったから、夜の部は半分くらいしかやらなかったんです。
一度、伸太郎役の宮口(精二)さんが空襲のあおりで来られなかったことがありました。公演はもちろん中止です。そのとき、万一に備えてカオルさんが代役のけいこをしていたんですよ。あの人、ボソボソってセリフをいっていましたっけ。
(中略)あれ、戦争中の最後の公演になりました。終わったあと、久保田先生の家に集まったんですが、先生が“これでもう、いつ会えるかわからないな”と話しておられたのを、今でも思い出してしまう。(引用おしまい)
俳優は死して何を残すのでしょう。杉村春子は自著で「人の心に残るということは、たいへんなことだと思いますけど、役者になった幸福は、そのことに尽きる」と言っています。録画技術が発達した1980年代以降の作品であれば、往年の小沢栄太郎熱演の「鬼平」のように数十年後に見ることもできます。ただしその文明の進歩は、俳優が残したくない駄作だって半永久的にさらす両刃の剣。
淡島千景が望んだ、いい原作や脚本。杉村が達成した、人の心に残る幸福。現在の俳優さんたちも思いは変わらぬはずです。「真田丸」にそんな作品になってもらいたいとの願いは、視聴者だって持っているのです。