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2016/01/17

「真田丸」第1回感想 「有働由美子の船出」

大河ドラマ「真田丸」の脚本家三谷幸喜さんが、14日付の朝日新聞夕刊の連載「三谷幸喜のありふれた生活」に良いことを書いていました。
より分かりやすくというのが、最近の大河の風潮だったように思う。もちろんそれも大事だとは思うが、今回は、可能な限り説明台詞を省く、というスタンスを取っている。わからなければ、調べればいい。調べる楽しさを味わってほしい。小さい子は親に聞けばいい。そこから、家族の会話が生まれる。(引用おしまい)
この姿勢には諸手を挙げて賛成します。「家族の会話」のくだりは、おじさんが前回の記事で、「ワラッチャオ!」の制作姿勢について評価した言に等しい。作品に期待が持てるというものです。さっそく第1回「船出」を見てみましょう。
タイトルは豪華なCG。人気ゲームのスタッフが作ったそうで、さすがにきれいですね。ただ、見続けていくとCGは飽きる。映画「スパイダーマン2」のフルVFXアクションシーンは力作だったけど、繰り返し見たいとは思いませんでしたもん。しょせん、実物の映像にはかないません。視聴者が1年間すげえすげえで通せるか心配です。
時代考証は機能しているようです。高木渉さんが右側から乗馬していました。日本では戦前まで続いた作法です。
武田の軍議での俳優陣のやり取りは見ごたえがありました。榎木孝明、温水洋一、稲荷卓央各氏はセリフの強弱やスピードで、演じる重役の性格付けをやってのけています。稲荷さんがいいなあ。最近のテレビドラマでは“性格俳優”という言葉が死語となりつつありますが、このジャンルでもっと注目されていい人でしょう。
第1回の見どころは、武田勝頼と真田昌幸。脚本家が、演じる2人にほれちゃっているから、主役の兄弟をたくさん出せ、と要求してもムダです。総花的に登場人物を紹介する初回にあって、両名の扱いは別格。この特定キャラ推しの具合が、マニアとアンチに大きく別れる三谷シナリオの今後の評判を左右しそうな予感がします。だから、本作において俳優の値踏みなんてのは早計にやるものではありません。
堺雅人さんにとっては、大スターに飛躍するかの試金石ですが、個人的に気になっているのが大泉洋さん。どんな駄作に出ても邪魔にならない独特の雰囲気を持っています。詰め込みすぎの脚本が渋滞玉突き事故を起こした映画「駆落ち女と駆出し男」、あの凶作朝ドラ「まれ」のクズ野郎でさえ嫌いになれないキャラクター。作為か天然か、不思議でなりません。視聴者として大泉洋のナゾを解く試みも楽しみです。
草笛光子さんには大笑いさせられました。城を出る支度をすると言って背筋まっすぐに立ち上がると、すごいスピードでカメラから外れていきました。大きな孫が3人もいる戦国の老婆役にはとても見えない。主人公の代わりに草笛さんが徳川への斥候に出た方が無難に帰ってきたんじゃないか、とすら思わせます。テレビというより舞台演劇の動きかな。御本人の年齢からいっても、感嘆の体力です。きっと高齢の視聴者には励みになりますね。
残念だったのは、斬り死にの出ないヌルいチャンバラ。そして、勝頼が唱える信玄の呼称を「父上」にしたことでした。斜陽産業の2代目社長が、古株の取締役連相手に「パパは、パパは」と話しているみたいでイタかった。せめて「父」、「信玄公」ならもっと良かったと思います。武田の支柱であった信玄の固有名詞を繰り返し用いることで、後に裏切る旧臣たちを演じる俳優たちのその場の演技に、より幅が出たかもしれません。惜しい。
まあ、このあたりは些事であって、1年間を通じての懸念は他にあります。ナレーションです。茶の間の人気者有働由美子アナウンサーの起用ですが、初回を聞く限り、あれは語りではなくアナウンス。基本早口で、文節をどこで切るのか、といった自分なりのプランが見えません。ただの台本読みに終わっています。短い尺内でのナレの情報量が多すぎるのも一因ですね。脚本家には一考を求めます。
タイトル直後、状況説明のナレーションに大仰なフォントでテロップがかぶせられました。文字情報で補完するのは、スタッフが語り手のスキルを全面的には信頼していない、という意味。語りで飯を食う人間であれば、恥ずかしいことです。
昨年末、年内の著名物故者を振り返る番組「耳をすませば」をNHKが放送しました。ナレは名手加賀美幸子さん。語りを成立させるためには、時にアクセントの一般的な決め事をも壊して話します。「長年、私たちに笑いと感動を与えてくれた2人が亡くなりました」との短い言葉の中での抑揚、間の取り方のセンスは、話し言葉に直接かかわりがない私たちにも学ぶべきところが大いにあります。会社の営業でこれができたら、トップセールスマンになれるわ。
今日はナレーションについて、公共放送に名を残す2人の意見を紹介します。まずは加賀美さんが「日曜美術館」を担当していた時代の読売新聞のインタビュー、1989年4月27日付の「Live」(次郎丸哲也記者)から引用します。
(前略)一口に声といっても言葉遣いや種類、発声の違いで微妙に変化する。性格、これまでの年齢もにじみ出る。で、地声よりやや低めの「全身から無理なく出せる」域に到達するまで、何と10年かかった。話すのが商売とはいえ「自分の声」がどうしても見つけられない人もいるというから怖い。
今、朗読やナレーションでは、第一人者。でも、大河ドラマ「峠の群像」で、女性アナ初のナレーターに起用されたときは、考え込んで頭痛に悩まされた。文学作品の朗読では、肩がコチンコチンに、首は寝ちがえたようになった。
「内容への心のかかわり方、感じ方、とらえ方の深さ、そして表現力が丸見えになるだけに、気が抜けない。そんな姿を出してしまってはお粗末だから、自然に保とうとして、なお力が入る」。文字通りの作品との格闘。画面からはうかがい知れない苦労である。(引用おしまい)
加賀美幸子名人にして、かつてこれほどの煩悶がありました。加賀美さんは干された時代にも努力をおこたらず、7時のニュースで復活を果たした後も、子育ての手も抜かずに話芸を磨き続けました。ご主人ら家族の支えもあったでしょう。
一応断っておくと、結婚せねば一人前じゃない、などと言うつもりはありませんよ。自民党の国会議員じゃあるまいしさ。有働さんの未婚既婚は関係ない。あくまで、ナレーションとアナウンスは別物だというお話です。
双方を使い分けた名人の一人に平光淳之助さんがいます。1960ー1970年代のNHKを、ニュース、ナレーション一筋に支えました。昭和天皇はじめ多くのファンがいた平光さんが定年退職を迎え、その仕事を振り返った1980年4月9日付の読売新聞夕刊「NHKの名アナ平光さん退職」から引用します。
(前略)「平光さんがニュースを読むと同じ原稿でもぐっと信頼感が増すように感じられる」とアナ仲間では定評があった。平光さんに言わせると「まず原稿のポイントはどこにあるかをしっかりと頭の中に刻みこむこと。要点をつかめば余裕ができるので、正確で、わかりやすく自然と耳に入るアナウンスができます。また絶えず世の中の動きに気を配ること。衆院で予算委員会が開かれていれば、参院で……とミスをするおそれがなくなる」。
(中略)ナレーターとして大河ドラマ「太閤記」、ドキュメンタリー「現代の映像」「日本の素顔」などを担当した。
「ナレーションは奥が深い。どんな作品か細かく分析して、どんな語りがいいかを判断、自分のしゃべりの調子を作りながら作品に生命感を与えるのですから」
(中略)このところ、ニュースは“読む”ニュースから“しゃべる”ニュースへ、アナウンサーも没個性から個性尊重へと流れが変わってきている。
「しかし、読むニュースはニュース報道の基本として、いつまでも残るでしょう。ニュースの読み手は米のご飯のように、あきられない存在であるべきです。ただ、最近の若い人の面白い個性は、発揮できる番組を作って、どんどん伸ばすべきです」(引用おしまい)
「作品に生命感を与える」。ナレーションには、ニュースの読みとはまったく違う価値観が求められることがわかります。有働アナウンサーは今後、「真田丸」に命を吹き込む域にまでステップアップできるのでしょうか。
先人が開いた語りの航路をたどって、かの港に行き着けるか。あるいは新たな海を開くに至るか。はたまたこのままアナウンスの暗礁に乗り上げ沈没するのか。ドラマ同様、有働ナレの船出は注目に値します。