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2015/09/15

阪急ブレーブス・大橋穣に学ぶこと

今年のプロ野球には若いスーパースター候補が目白押しです。シーズン200本安打を記録した西武・秋山翔吾選手、30本塁打・打率3割・30盗塁を達成する勢いのヤクルト・山田哲人、ソフトバンク・柳田悠岐両選手ら。ここまで13勝を挙げている日本ハム・大谷翔平選手も素晴らしいですね。
ホームランやヒットをバカスカ打ったり、速球で三振の山を築いたりするのが一般に言うスター。上記の若手プレイヤーたちは、まさにプロ野球人気を背負って立つキラ星です。でも、スターばかりでは、どんな社会も成り立たないというのが、今日のお話です。
山田選手が30盗塁目を決めた9月6日の37年と1週間前の1978年8月31日の夜、おじさんは夏休みの宿題の仕上げをほったらかして、ラジオにかじりついていました。仙台で行われたプロ野球パ・リーグのロッテー阪急という不人気加減も極まりたるカードです。この試合で、阪急の今井雄太郎投手が完全試合を達成しました。おじさんは電波を通して、パーフェクトゲームの経過と達成の瞬間を共有したのです。
今井さんは速球でビシビシ三振を奪ったり、詰まらせてフライを上げさせたりするタイプではなかったので、内野ゴロが多かったように記憶しています。だから、打球のコースや強さによっては、ヒットになってもおかしくないケースがいくつかありました。実際、アナウンサーが「いい当たりだ!」、「打ったあ!」と何度か叫びました。でも、その直後に判で押したように、「大橋取ったあ! 一塁送球、アウト~!」と中継されるんです。
大橋穣さん。阪急ブレーブスの金城湯池の遊撃手でした。おじさんは貧打弱小の南海ホークスファンでしたから、敵として幾度も同じようなプレイを見せつけられてきました。大橋選手独特の深い定位置、広い守備範囲にある強肩からうなりをあげて発射されたボールが、一塁手のミットに突き刺さり、打者走者を惨殺する様子が、ラジオの音声から想像できました。
史上最高のショートストップはだれか、なんてよく言われますね。おじさんより上の世代だと、阪神・吉田義男、巨人・広岡達朗。もっと古い人になると、南海・木塚忠助なんて名前が出てきます。先人を知らず、どマイナー在阪電鉄3球団亡き後、プロ野球をあまり熱心に見なくなった人間の答えは「大橋穣」一択です。
大橋さんは亜細亜大在学中、東都大学リーグで20本塁打を記録した長距離砲でした。ところが、東映フライヤーズに指名されてプロ入りした途端、その強打は影を潜めました。いったい何があったのでしょう。阪急にトレードされた初年、1972年の読売新聞「採点 キャンプ’72」から引用します。
(前略)今年の焦点は、東映との間で阪本(敏三)と交換した遊撃の大橋。守備は一流、打撃は三流(昨年の打率2割1分3厘)といわれるこの選手を打率2割5分の打者に育て上げようと西本(幸雄)監督、上田(利治)コーチは、つきっきりで指導してきた。フォームも右足に重心を残したダウン・スイングに改造。特訓を含めて1日300ー400本の打撃練習でようやくフォームは固まってきた。
だが、まだタイミングが合わず、対阪神戦でも3打数ノーヒット。(引用おしまい)
結局、大橋さんの打撃は、引退まで振るいませんでした。打率1割台のシーズンも2度ありますが、ともに300打席を超えています。その守備力がいかにチームに貢献したのか、首脳陣の信頼が厚かったのかがわかります。
本題に戻ると、学生時代に豪打を誇った大橋さんが、プロ入りした途端、どうしてバッティングがダメになったのか。1972年2月15日付の朝日新聞「プロ野球キャンプ’72」から引用します。年号は昭和です。
(前略)阪急の打者はマスコット・バットで打撃練習をする。重さは950グラムから1キロ。大橋はこのバットが振切れない(ママ)。特訓を入れると1日の打つ数は約400球。長池(徳士)、大熊(忠義)、森本(潔)らは500球以上打っても涼しい顔だ。しかし、大橋は「マシンの球を打ったことがない」という流行遅れ?の球団にいて、環境の変化が激しすぎた。マシンの重い球に押しまくられ、キャンプ5日目で右ヒジを痛めた。ヒジの故障などは、たいてい投げることから起る(ママ)。この一件、大橋が繊細なのか。阪急の練習が異常なのか。
44年、亜大から東映に入団、阪急へ移ったことしが4年目。過去3年間の最高打率は1年目の2割1分7厘である。一緒に阪急へ移った種茂(雅之)にいわせると、「フォームをいじられ過ぎ」。新人として伊東キャンプに参加した2日目にフォームを一から変えられた。「大学時代は、握りの細いバットを立てて構えていたんです。それをろくに見もしないで、いきなり握りの太いバットに変えられ、おまけにねかせて構えろでしょう。ショックだった」とこれは本人の話。守備がいいから打撃が少々悪くても使われた。自信のないまま打つ。「これが大橋の悲劇だった」と西本監督。ちょっと大げさだが、まあそんな悪循環だったらしい。(引用おしまい)
当時の新聞記事をあれこれ検証すると、大橋さんのフォームをいじくったのは、どうやら東映の松木謙治郎監督だったようです。張本勲さんら好打者を育てた松木は、明治男のガンコさで大橋さんに我が打撃理論を押しつけたのでしょう。松木の輝かしい球歴にケチをつけるつもりはありませんが、大橋さんへの指導に関する限りは強引に過ぎた感があります。
大橋さんの野球人生には、少なくとも二つの教訓があります。一つは、大ヒット商品を開発したり、大きな売り上げを誇ったりする営業マンのいる企業、あるいはすごい発明や発見を成した研究機関であっても、間違った支出を止める経理や社員の福利厚生を担う人間、STAP細胞のような誤った発表を確実に止める職員がいなければ、組織や社会は成立しないということ。今井雄太郎さんの完全試合は、今井さん一人が成し遂げたものではないのです。
もう一つは、人にものを教えるということは、相手の能力を向上させ、人生を充実させる目的ではありますが、それを狂わせる事態も起こしうる、大変な責任を伴うという意識が必要だという事実。打撃指導者が松木謙治郎でなかったら、大橋穣選手は、球史を塗り替えるスラッガーになっていたかもしれません。
山田選手や柳田選手らが脚光を浴びる中、目立たぬけれど自分の役割を確実に務めるプレイヤーが、今だっているはずです。みんなも自分の心に新しい大橋穣を見つけてみたら、スポーツや一般社会の見方に幅が出てくるのではないでしょうか。