コピー禁止

2015/08/08

「花燃ゆ」打ち切り論の危険性

筒井康隆さんの小説に「最後の喫煙者」という短編があります。世界中の禁煙運動がエスカレート、やがて非喫煙者たちによるスモーカー殺人や家の放火に発展し、ついには主人公「おれ」が地球上最後の喫煙者になるというドタバタです。
不振の大河ドラマ「花燃ゆ」は現在、まさに「おれ」の立場にあります。駄作である事実が衆人承知となり、ネットニュースで打ち切り説が流れたあたりから、「これは駄作だから叩いてもいいんだ」とのムードが充満。感想掲示板などには、「打ち切った方がいい」、もしくはストレートに「打ち切れ」といった言説があふれます。まるで「売国奴」「非国民」と言わんばかりの雰囲気。
おじさんは、打ち切り論に与しません。「打ち切れ」というのは、作品へ「死ね」とののしるに同じではないですか。情がなさ過ぎる。「死ね」と言い放った作品を論評するのは、良いところを見つけようとする視点皆無のただのイジリ、いや、いじめではありませんか。おじさんもこれまでの感想で、脚本や演出の非常識な場面場面にクズ、アホ、バカみたい等々の言葉を使ってきましたが、全否定はよろしくありません。意に沿わぬ者に対し攻撃して排除する態度は、民主主義に反します。その一線は守りたいものです。フランスの作家ヴォルテール風に言うならば、「私は『花燃ゆ』には反対だ。しかし、それを放送する権利は擁護する」。
確かに本作の雑な脚本考証は、もっての外です。貧乏杉家に幾槽もの風呂があって塾生が入浴するシーンはじめ、ホームドラマ部分は、どうやら福本義亮著「吉田松陰の母」(誠文堂新光社刊)や、斎藤鹿三郎著「吉田松陰正史」(第一公論社刊)あたりの逸話から多くを得ていると推察されます。福本は吉田松陰の同郷で無条件に松陰を尊敬していた人です。斎藤は日露戦争後に「東郷平八郎の母」なんて伝記本を出したり、広島高等女学校校長として頼杏坪(詩人。文人頼山陽の叔父)の顕彰会に出席したりしていた記録がある、どうやら修身教育系の人物。それゆえ、事実関係がいかにもうさんくさい上、両書とも松陰の神格化がピークに達していた1940年代前半の出版。エピソードを無批判に持ってくるのは、いかにも無神経ではあります。
でも、それをおいても、「打ち切れ(死ね)」はない。世の中は多くの凡人愚人と一部の優秀な人間で構成されています。傑作よりも凡作駄作の方がはびこるのは理の当然。作品統制の言論は、北朝鮮や中国と同様の文化政策につながりかねません。
今日は、その文化統制を行なっていたころの日本のお話を紹介します。1937年9月3日付の東京朝日新聞「安物の軍事映画を排撃 内務省が業者に注意を与ふ」から引用します。
内務省では過般の映画業者との懇談会において興行道徳について批判を加へ、殊(こと)に流行の軍事映画については左の如き警告的希望を与へた。
(1)昭和7年の第一次上海事変のニュース映画を今回の事変(注・日中戦争)映画の如く装うてゐるインチキものは不可(2)劇映画の航空描写で洋画のある部分をコッピィ(コピー)して繋ぎ合せ(ママ)、明(あきらか)に日本の飛行機らしく誤魔化してゐるものは排撃する(3)事変ニュース上映に際して第何報と明示しないために同一のものを縷々(るる)見せられるといふ非難あり、必ず第何報といふ事を入場者に明示されたし
その他数項あり、又軍事劇映画も取扱ひ方(ママ)如何によっては思想的に面白からぬ結果を招く事あり。応召者の家庭悲劇などを誇張して取扱ふ事にも慎重を期すべしとの事であった。要するに際物的の功利主義で国家観念を忘却した安物軍事映画をこの際一掃する方針のやうである。(引用おしまい)
「際物的の功利主義で国家観念を忘却した安物軍事映画をこの際一掃する」。表現の自由をじゅうりんするイヤな言葉ですね。こうした「排撃」は、ほとんどの場合、官製の指導のみによって作られ得るのではありません。多くは民意がそれに同意した時に発動されるもの。「花燃ゆ」に対しても、面白半分のネットニュースの尻馬に乗らぬ自制心があってしかるべきではないでしょうか。
「最後の喫煙者」の終幕、自殺を試みる「おれ」は、それすら許されぬ状況に絶望します。自身の生殺与奪権すら奪われた人間の惨めさよ。いかな駄作といえ、「花燃ゆ」にそれを負わせることなく、排撃する権利はだれにもありません。自分がそのドツボにはまらぬよう言い聞かせながら、明日の視聴、そして生温かい温かい感想の執筆に臨む所存です。