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2015/08/14

不死身の特攻兵

「きのこ雲セット」って料理、知ってます?
シチューの入ったカップの上にパイやパンを乗せた外食メニューで、ネット情報によると全国的にこの名前が一般的なようです。
やはり戦争の記憶は、次第に薄れていくのだと痛感します。広島と長崎の原爆資料館を訪れた一人として、この料理は口に出して注文したくありません。戦後70年を迎え、どうすれば戦争のない日本社会を訴え続けていけるのかと不安になります。
戦争は、えてして無関心とムードに流される国民感情から一線を越えます。特攻隊が悪例。飛行機や潜水艦での自殺攻撃をだれが喜んでやるものか。しかし、赤信号もみんなで渡れば怖くない雰囲気が全体に充満してしまえば、自分だけが青信号を待つ態度は取れなくなるもの。そうやって大勢の若者が命を散らしたのでしょう。
今日は、特攻自殺を戦場で果敢に拒み続け、現在まで生き抜いた特攻隊員のお話をします。1944年11月12日、陸軍初といわれる空戦特攻が行われました。フィリピン・レイテ島に駐軍していた「万朶隊」が敵艦隊へ突っ込んだのです。同14日付の朝日新聞によると、戦死したのは4人。その中に、佐々木友治伍長という若者がいました。同紙には直衛機の報告として、伍長は戦艦に体当たりし撃沈した、とあります。
朝日新聞は準備のいいことに、屯田兵の六男である等、北海道当別町にある伍長の家族情報まで載せています。すべては大本営発表の引き写し。しかし、佐々木伍長は死んでなどいませんでした。1カ月と置かず、伍長の名は再び紙面に登場します。同年12月9日付の朝日新聞「三度目の出撃奏功」から引用します。
【比島前線基地特電8日発】我が特別攻撃隊万朶飛行隊の1機が12月5日、レイテ湾の敵戦艦もしくは大型巡洋艦1隻を攻撃、大破せしめた旨、大本営から発表されたが、これぞ万朶隊佐々木友治伍長が、石渡俊行軍曹とともに単機憤怒の殴り込みだ。
この佐々木伍長こそ去る1112日、第1回万朶隊総攻撃に参加し、一たびは体当たりと味方からも認められるほど敵艦に近づいたが、突っ込みの角度悪く、機首を上げて再度敵を狙ううち、遂に雲に妨げられ、怨みを呑んで基地に帰着した佐々木伍長だった。越えて12月2日、機会に恵まれて再度レイテ湾の敵戦艦攻撃に向かったのだが、この日もまた悪天候に阻まれて引き返した佐々木伍長が、三度死を決したこの日の攻撃だ。
「死するは易く、生きるは難し。死に急いではならぬぞ」と富永(恭次)指揮官の教訓をじっと胸に秘めて、あの日以来待ちに待った今日の攻撃だ。翼も怒りにふるえるかに見えた。殺気がひしひしと機を包んでいた。髪の毛は一本一本怒りのために硬直していただろう。
直掩機にちらりと眼を配ったのが最後だった。そのまま吸われるように敵戦艦(または大巡)に飛行雲の尾を引いて突入していった。猛炎と轟音の中に佐々木伍長の若い肉体がパッと万朶の桜と咲いた。瞬間、上空にあって同機の敢闘状況を確認していた直掩機伍長の烈しい攻撃精神をはっきりと心に受け止めていた。(引用おしまい)
 なんと3度目の出撃です。富永恭次は東条英機に取り入って出世した現場を知らない愚将で、東条の失脚とともにレイテに送られてくると、特攻を繰り返し、「最後は自分も行く」などとホラを吹いたあげく、戦場に留まるべしとの軍令を無視して、部下を見捨て台湾に逃げ込んだ卑劣漢として有名です上層部にいい顔をしておきたい富永としては、佐々木伍長はぜひにも死んでもらわないと困る存在だったでしょう
「3度目の正直」で佐々木伍長の魂は、ついに靖国に赴いたことになりました。若者の命をプロパガンダのためにもてあそぶような朝日の記事にムカつきます。自民党の勉強会が考えるところの理想の新聞とは、こういった代物なのでしょう。こんな統制社会は二度と御免です。
終戦を迎え、逃亡した富永の醜態を伝える報道が紙面に載ります。そこに再び、佐々木友治伍長の名前が表れたのです。死者としてでなく、堂々たる生き残りとして。
19451026日付の同紙「部下特攻隊を置き去り 富永指揮官」から引用します。
(前略)佐々木友治伍長は陸軍特攻隊の第一陣、万朶特攻隊レイテ湾攻撃隊員として生田、田中曹長らとともに1112早暁、カローカンの基地を出撃したが、九七双軽NO7の彼の愛機は、巨弾を敵艦に命中させながらも無事に彼を基地に連れ戻した。
生きている特攻隊員の報は、大本営に戦死と報国済みの航空軍司令部を驚愕させたが、この事件は大本営の訂正で落着し、佐々木伍長は12月8日、第2回の特攻攻撃に向い、大戦果の発表とともに彼の4階級特進さえも発表されたのである。しかも彼伍長はカローカンの万朶隊の宿舎で再び不死身の肉体を休めていた。「自分はどうも死に神に見放されているので」と、当の伍長は笑っていたが、参謀たちにとっては大本営発表で死んでいる佐々木伍長の存在は何か割り切れぬものがあった。
果たして司令部は1218ミンドロ島サンホセ沖攻撃に三度伍長を向けた。しかし皮肉にも装備を誇る直掩機さえも還らぬ基地に、伍長の愛機NO7は、その翼に数発の弾を受けただけでまたも帰還した。ついで1月6日、リンガエン沖敵艦突入を命じられた伍長の姿は、その日以来基地から消え、さすが不死身の佐々木も死んだかと思われたが、その伍長のまるまる太った色白の顔は1月20過ぎ、北部ルソン・エチアゲ飛行場で発見された。
われわれは幽霊かとばかりに驚いてしまったが「どうです。ずいぶん苦労されたのだから内地に一度還っては」と尋ねたのに対して伍長は「自分が生きていては具合が悪い向きもあるようですから――それに生きている特攻隊員なんて話にもなりませんよ」と、高笑いしながら、遂に山中深く消えて、その行方を絶ってしまった。(引用おしまい)
記者の創作がたぶんに感じられる内容ではありますが、ともあれ佐々木伍長は生きていました。特攻で死ねと言われても自死を拒んだ佐々木伍長の行為は、軍令違反だったのかもしれません。だけど、それは自己の尊厳を守るための行いです。富永恭次の我が身大事の軍令違反とは全然違います。
周囲が皆突撃死していく中、ただ一人死なない特攻隊員は、隊内ではいかな目で見られていたでしょう。体制に流されることなく、個を主張した佐々木伍長の生き方には、戦争法制が整備されつつある現代の日本人が学ぶべき点があります。周りがどうであっても自分の頭で考えること。「きのこ雲セット」が喜ばれる風潮にあるとはいえ、流されることなく戦争を拒否する態度をおのおのがそれぞれの方法で求めていきたいものです。
佐々木さんの存在については、1年ほど前ましたが、無事復員されたのかがわからず、記事にするのを控えていました。14日放送の「スーパーJチャンネルSP 戦後70年特別企画」(テレビ朝日系)に、92歳になる佐々木さんが登場するそうです。健在で何より。戦争の愚かさと、個の尊厳について、思い切り語ってもらいたいものです。