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2015/05/05

香川京子の戦争、早坂暁の戦闘

4日の「報道ステーション」(テレビ朝日系)の沖縄・ひめゆり学徒の証言特集での女優香川京子さんのナレーションに心打たれました。
香川さんは、映画出演をきっかけに沖縄の生き残り学徒たちとの交流を始められたそうですが、ご自身も戦火や飢えと隣り合わせの銃後を体験しているのですから、説得力があるのは当然。沖縄と本土、場所こそ違え戦争の語り部の一人です。
敗戦20年を迎えた1965年8月15日、TBSは記念ドラマ「太陽がまぶしい」全2回を放送しました。あの8月15日を境に戦犯容疑者にされて、戦争によって人生が狂った一家の物語です。
主演は田村高廣。1945年には、学徒動員先の愛知県の中島飛行機工場で毎日イモをかじりながら、「天山」「彩雲」といった海軍機を組み立てていたそうです。
その婚約者役が香川京子さん。6月半ばに長女を産んだばかりながら、「どうしても演じたい」と直訴。産後にもかかわらず、酷暑のロケを乗り切り放送にこぎつけたといいます。
脚本は後に「花へんろ」や「夢千代日記」をものする早坂暁さん。このころは、血気盛んな、戦う放送作家だったようです。1965年8月22日付の読売新聞のコラム「日曜サロン」から、その姿勢がうかがえます。以下に引用します。
このところ夏になると、ボクは戦争ものの仕事にとりかかる。
ことしは、戦犯者の逃亡を扱ったドラマ「太陽がまぶしい」(TBSテレビ)だったし、去年はいまだ戦争の傷跡も生々しい沖縄のドラマ「聖火」(フジ)だったし、おととしは、やはり“祖国の中の異国”沖縄を舞台に空前の干バツにあえぐ南の島のドキュメンタリー「水と島」(日本テレビ)を書いた。戦争ものといっても、ボクの戦争ものは、小気味よく砲声もとどろかず、きわめてカッコよくないせいか、去年などミギの人らしい人物から、何度となくおどしの電話をもらった。その時のドラマは見えない敵のことがテーマの一つになっていたから、テキもなかなか味なことをするなと感心した。感心はしたが、納得したわけじゃない。
どうして、沖縄の若者の一人が「内地は沖縄を血の防波堤にしておきながら、今、沖縄との間に差別の防波堤を築いているのか」と叫ぶのがよくないのか。ボクには理解できない。戦後はじめて沖縄を訪問した佐藤(栄作)首相が“沖縄の祖国復帰が実現しない限り、戦後は終わっていない”といっているけれど、これは戦後歴代首相の作文集の中で、まず筆頭にあげていいものだとボクは思う。
戦後は終わったなんていっている連中が多いが、いいおとなにしてからがそうだから、若者たちは、砲弾のサクレツ音を、ボーリングのピンがはじけとぶ快音と同列にならべてしまうのだ。
ただボクは思うのだ。戦後がいつもかつての戦争を起点とし、終点としてあるかぎり、ただ今は戦後でなくて、実は戦前ではないかと。かつて悲惨な戦争があった。人々は疲れ、うちくだかれ、悔やみ、そして忘れ、またさらにひどい戦争をはじめた。
だれかが、戦後は終わったと叫んだとき、あきらかに、もう戦前は始まっていたわけだ。この戦前は人類が蒸発してしまうというような恐ろしい戦前なのに、なんとけだるく、ものうく、うすらしあわせなことか。(引用おしまい)
カタカナ表記が多いのは、当時の流行ですね。今読むとうざったい。それは置いて、テレビ局の苦情対応係など他人を介さず、脅迫電話に直接対峙する早坂さんの表現者としての覚悟に頭が下がります。出産直後に自分が演じずば済まなかった戦中派香川京子さんの俳優魂もすさまじい。
ひるがえって昨今のメディアは、などと野暮は申しますまい。早坂さんの言には、もっと重要な事実が含まれています。みんなは核戦争が起こり得る「戦前」に生きているんだということ。核兵器は戦略兵器だから使用されない、なんて寝言は通じません。それは日本人が一番よく知っているはず。
今日は、こどもたちのための祝日です。集団的自衛権に日米安保の新ガイドライン等々が眼前に屹立する5月5日。なんともけだるく、ものうく、うすらしあわせな大人たちが、こどもたちの未来を考える日であってもいいと思います。