コピー禁止

2015/05/04

憲法と健忘

憲法記念日の朝日新聞の社説「安倍政権と憲法ー上からの改憲をはね返す」は、いったいだれに読ませたかったんでしょう?
観念的で庶民感覚に欠ける。ウチの読者は当然護憲だよね、という上から目線が透けて見えるクセに、政権に対しては腰が引けています。 
憲法を一言一句直してはならないというわけではない。だがこんな「上からの改憲運動」は受け入れられない。政治に背を向け選挙に棄権しているばかりでは、この動きはいつの間にか既成事実となってしまう。(引用おしまい)
これでは趣旨が理解できません。朝日は憲法をどうしたいの?  具体例を挙げて「改憲しろ」と言ってる読売新聞の方がよっぽど社説としてわかりやすい。
朝日の体たらくは、3月末の時点である程度読めていました。同月29日付の社説「安倍政権の激走」にガッカリしましたから。
先の施政方針演説で、野党席の方を指しながらこう力を込めた安倍首相。確かに、政権の激走ぶりには目を見張るものがあり、ついエンジンの馬力やハンドルの傾きにばかり気をとられてしまうが、最も注視すべきは、ブレーキだろう。(引用おしまい)
馬力やハンドリングにも気をつけろよな、危ないんだから。
一般に日本語で「激走」は、ほめ言葉。「サファリラリー激走」とか「42.195キロを激走」という感じで使います。権力を批判する場合には普通、「暴走」「迷走」などと言いますよね。安倍さんと裏で何かあったのかしら?
「憲法は権力を縛るもの」と、直球でご教示いただいたところで、市民の意識ではピンときません。民主主義国家では国民の幸福が最優先されます、権力者はえてしてそれを侵しがちだから国民を守るために憲法で縛りをかけます、ぐらい言っておかないと通じないんじゃないでしょうか。
憲法記念日は法律で定められた国民の祝日。でも、政治家の皆さんはそれを祝ってくれません。その違和感を1959年5月3日付の読売新聞「編集手帳」が言い当てています。記事を引用します。
きょう3日はいうまでもなく憲法記念日。国の祝日だからどのカレンダーにも赤い丸がついている。その国の祝日を政府も政治家も祝おうとしない。国民はただ休むだけである。なんとも奇怪な祝日である。
4日前の天皇誕生日は岸(信介)総理大臣以下こぞってお祝い申し上げた。数年前までは、皇居前広場に会場を設け、天皇にご出席を願って総理大臣以下が憲法記念式典を行い、おごそかに平和憲法を祝った。そして総理大臣はこの日の談話を新聞、ラジオに発表した。
いつのまにかこの記念式典は中止されてしまった。この限りにおいては、昭和22年5月3日に新しい憲法が施行されたことは忘れ去られている。いや、現実には憲法そのもの、あるいは憲法の精神が忘れられている。ときにしばしば憲法の存在するということも忘れられているのではないかという錯覚を起す(ママ)現象さえある。
きのう、国会が終ったが、この国会が自衛隊を増強するという防衛2法案を暁かけてやっさもっさで可決した翌日が憲法記念日だった、ということは皮肉なめぐり合せである。しかも政治家たちが憲法を記念するということを忘れはてているのだから念が入っている。
まことにいまの日本国憲法はふんだり、けったり、やれ調査会だ、いや研究会だといじくりまわされている。調査会や研究会の仕事は意義があるが、憲法を邪魔もの扱いにし、憲法に忠実な判決を冷ややかに迎えるというのはいったいどういうことなのであろうか。
どうせ押しつけられたものだ、改正しなければならないのだから、ということと、いまの憲法を守らなければならぬ、ということははっきりと区別すべきである。この区別がなくなったら国の秩序はなくなる。どうやらこの秩序があやしくなってきている。
どうせよごれるからといってクツをみがかず、どうせ小さくなるからといってこどもに着物を着せないでいる人はあるまい。もうすこしいまの憲法という着物を愛用し着心地を工夫したいものである。(引用おしまい)
少なくともこの時代から、憲法軽視の操作が始まっていたことがわかります。日本の最高法規なんだから継子扱いせずに、毎年の記念日をことほぐ談話を首相が出す程度の度量があってもいいですよね。
次は、1974年5月3日付の毎日新聞社説「『社会的公正』の実現をめざせ」から引用します。
(前略)憲法が国の最高法規であり基本法であるからといって、これをいっさい批判してはならぬということにはならない。だが問題なのは、そのような批判に便乗して、憲法の基本原理をもゆがめるおそれのある政策がとられることである。その危険を田中(角栄)政権になってとくに感ずる人が多くなっている。
たとえば「君が代」を国歌として法的に制定することをほのめかしたり、「教育勅語」復活を示唆するような発言をしたりしていることがそれである。明治憲法下においても「君が代」を国歌として法律上裏付けられたことは、一度もない。首相のいうように教育勅語のなかに現在にも通ずる人倫の道が説かれていることも事実である。しかし、その文言よりも、その背景が「主権在君」であって「主権在民」の現憲法とは本質的にちがうことこそ、重視すべきである。
また、靖国神社法案(注・靖国を政府管理とする)が今国会で話題になっている。憲法上の疑義があるだけでなく、国民の間にかなり広範な反対があるにもかかわらず、このように何回も取り上げる政治姿勢に問題があろう。靖国神社法案の成立を望む人のいることも事実であるが、反対する人がいることも現実である。これは、国民的合意はできていないということである。憲法上疑義をもたれ、しかも国民的合意のないものを取り上げるところに、たとえ自民党の議員提案であっても、田中首相の憲法感覚への疑問が生じてくるのである。
それよりも、いま田中首相が先頭に立って実現すべきは、衆参両院の議員定数の是正であろう。裁判所は現行の定数制を憲法違反とはしていないが、主権者の1票の重みの各地区間の大きな不均衡が、選挙の公正さを損なっていることは、国民主権の憲法原理を尊重するうえからも急務のはずである。それを放置して、「日の丸」とか「教育勅語」とか「靖国神社」などに傾斜している政治姿勢は、民主主義政治のうえからも憂慮すべきことといわねばならない。(引用おしまい)
今でも人気の高い田中角栄ですが、戦前的価値観に寄りかかる発言が多かったことがわかります。「実現すべきは定数是正」との論説は、現政権にそのまま当てはまります。
当時と現在で大きく変わった状況としては、「君が代」が国歌になった点。教育現場からは、民主的と呼べぬ強制の事例が伝わってきます。権力監視能力の劣化が招く結果の恐ろしさよ。
最後に、1986年5月3日付の読売新聞社説「身近な憲法問題を見つめよう」を引きます。東日本大震災と福島第一原発事故以後を生きる日本人みんなが、憲法について考えるヒントがあると思います。
(前略)憲法は空気や水のようなものである。ふだんはその存在を意識しない。恩恵は無意識の中にある。ところが、私たちが国家や公権力と向かい合った時、初めて憲法を意識し、その力に頼るのではないだろうか。
新聞は毎朝配達されてくる。途中で配送を止められたり、紙面が墨で塗られることはない。政権や権力者に都合の悪い記事もあれば、しんらつな論評も載る。当たり前のことである。
しかし、言論・出版の自由が保障されていなければ、正確な報道や自由な論評も危うくなりかねない。最近、ソ連で発生した原子力発電所の事故の情報は、ソ連国内で全容が公開され、政府に対してマスコミによる批判が加えられているだろうか。国民の目と耳をふさぐような公権力の行使は、わが国では、明らかな憲法違反である。(引用おしまい)
NHKやテレビ朝日への自民党の聴取は、新聞の墨塗りと同じではないですか?  福島原発の現状を知る権利は、チェルノブイリ事故でのソ連の対応を嗤い、国民が胸を張れるほどクリアなのでしょうか。
憲法記念日に記者が殺傷された朝日、西山太吉記者の沖縄返還をめぐるスクープをねじ曲げられた毎日、正力松太郎社主がテロリストにひん死の重傷を負わされた読売。各紙の縮刷版をのぞけば、そこには健忘を許されぬ、言論の流血の歴史があります。
新聞やテレビ、週刊誌といった大メディアは、昨今の選挙の低投票率をカサにきて有権者に憲法論議を押しつけるようなマネをせず、自らの旗幟を鮮明にする責任があるだろうよ、と上から目線で考えてみました。