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2015/03/21

TBSが劇伴を殺した日

昨年の夏に死去した米倉斉加年が出演していると聞いて、番組の途中から「新・法廷荒らし 猪狩文助~終の棲家~」(TBS系)を見ました。緊迫するはずの法廷シーンに、1960年代のマカロニ西部劇「ウエスタン」の劇中音楽が垂れ流されて、のけぞりました。
「ニュー・シネマ・パラダイス」などによって日本でも広く知られるエンニオ・モリコーネの有名なスコアを、なんという使い方をするのか。
ビデオやDVDのなかった少年時代に、テレビの洋画劇場で繰り返しこの映画を見て、NHK-FM・関光男のサントラ放送番組をラジカセで録音しては幾度も聴き返していたおじさんは、映画オリジナルの場面が脳裏にシンクロして、ドラマが頭に入りませんでした。
ハーモニカが暗いメロディを奏でると、柄本明さん・米倉斉加年両人の熱演は吹き飛び、チャールズ・ブロンソンのガンプレイがよみがえります。「ウエスタン愛のテーマ」(当時は旋律が美しい曲は日本では軒並み「愛のテーマ」と称されていました)がかかると、スリムな草刈民代さんの存在感は消えて、小原乃梨子さんの声でしゃべるクラウディア・カルディナーレのおっぱいが目に浮かぶといった具合です。映像と音楽が一体化している過去作を安易に使用したせいで、すべてが台なし。
これが許されるのなら、恋愛ドラマの正念場に黛敏郎の「日本テレビ・スポーツテーマ」を流してもいいし、時代劇のチャンバラでAKB48がガンガン歌っていても構わなくなる。何でもアリになっちゃいます。
やたらと音をかぶせるカロリーオーバーが続くNHKの大河ドラマ、朝ドラに明らかなように、劇伴音楽の軽視は看過できない問題ですが、TBSのモリコーネ流用がもたらした劇伴の破壊とも呼べるレベルの事故は、我が国のテレビドラマ制作者のプロ意識の欠如だと強く主張します。
「スターウォーズ」や「ハリー・ポッター」を手がけたスクリーンミュージックの大家ジョン・ウィリアムズが中堅どころだったころ、アルフレッド・ヒッチコックの遺作「ファミリー・プロット」のある場面につけた曲を没にされた話を作品DVDの副音声で知りました。音楽を排除し無音であることがシーンにさらなる効果を与えることがある点、大河ドラマなどではもっともっと考えられるべきだと思います。
黒澤明の「羅生門」「七人の侍」や溝口健二の「雨月物語」の音楽で知られる早坂文雄が日本の映画音楽と世界の彼我の差を批判した一文が、1953年3月20日付の朝日新聞に掲載されました。 音楽家に限らぬ制作者の無知と無理解ぶりが現在に通じると思います。「廿世紀(20世紀)の新魅力 新芸術としての映画音楽」から引用します。
(前略)日本の多くの作曲家達は、現象と本質とを混同した結果、上野的(注・東京芸大的の意と思われる)音楽のみを偏重し、真に自由な世界を呼吸し、その可能性に満ちた映画音楽を心の内にはけいべつしながらもアルバイトとして無責任な仕事をしているに過ぎない。そういう事では人間の生き方としても賛成できない。つねに最高の仕事をしたいと希う(ねがう)心は、純音楽と映画音楽の区別はないはずである。映画音楽に愛情をもたなくてはならない。ところがわが国のプロデューサー諸氏の音楽軽視と理解の浅さは、この現状を見逃し、日本映画をより低調にさせているのであるが、このことは輸出映画の外国での率直な反響などにより、その時になってウカツであったと気がつくことであろう。ともかく今日のように拙速安価な音楽がそのまゝ通るような映画界では、輸出ウンヌンは砂上の楼閣である。(引用おしまい)
最初からジャブなど打たず、同業者へストレートを見舞う早坂文雄。しかし、実はそのパンチの先にはプロデューサーがいます。音楽の役割に関する興味のない人物像、それが制作責任者。60年以上前と同じ水準で、「新・法廷荒らし」が作られているのが残念です。引き続き同記事から引用します。

(中略)「羅生門」の成功は、黒沢監督のまれな才能に信頼して各部門が一つの意図に集結し切った努力の結果であったが、黒沢作品の場合画面と音楽とを同等の価値において映画を考えてくれることが成功をもたらした原因の一つであったのでもある。つまり、撮影はたゞ映画の素材を作るものであって、できたフィルムを編集し、音楽ダビングをする段階がほんとうに作品を削る時であるという考えが「羅生門」にも及ぼされ、音楽の質感を大切にして、その能力を十分に発揮させたのである。音は画に対する感情的伴奏であると一般に考えられているが、そうではなく、画と音は加乗しあった体位法的な相乗作用により第三次元の表現体が生れてくる(ママ)ということを根本の考えにしたのである。
黒沢監督は音楽打合せ(ママ)をしない限り決して撮影にかゝらないし、作曲のデッサンは録音前に聴いて検討する。編集も音楽のリズムを考慮に入れて為される。 そして音楽の仕上げの時、彼の映画制作の精力をそこで痛々しい程に出し切るのである。作曲家にとっては怖い相手である。「羅生門」の音楽も、平安朝という時代考証的なものにとらわれず、現代の感覚とスタイルで貫いたが、黒沢明が音楽監督で私がその作曲家であるというように、彼が音楽のアイデアを出し、私がそれを音に構成した所が多く、そうしたネライのよさがアメリカ映連の副会頭シャーロック氏がこの音楽を賞賛した原因となったものであろう。映画音楽をこのように映画構成の重要な要素として考えてくれるのは黒沢監督をもって最たるものとするが、撮影も美術も演技も音楽と同様その能力のぎりぎりまで要求されたのである。「羅生門」は偶然の産物ではないということをここに言っておきたい。(引用おしまい)
黒澤明信者が読めば泣いて喜ぶような早坂の持ち上げようですね。黒澤は音楽への造詣が深く、映画制作各技術へのこだわりが強い人。師匠の山本嘉次郎もそうでしたし、前述のエピソードからうかがえるヒッチコックも同じでしょう。
映像劇が総合芸術である以上、トップには全体に気を配る教養が求められます。プロデューサーが名誉職みたいになっていることが、「新・法廷荒らし」で露呈してしまいました。
テレビドラマに求められるのは教養と良心。浅い人が作れば、ただちに視聴者に見透かされてしまいます。