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2015/01/14

「花燃ゆ」、監視モードへ

大河ドラマ「花燃ゆ」への期待は、2話で消えました。
突然の超能力を発揮して、孟子を暗誦する主人公は、エスパー魔美ならぬ「エスパー文」。朝ドラ「マッサン」のヒロインと争うかのように、諸事にしゃしゃり出てくるところも好感度を下げています。
これでは「江・リターンズ」です。あの地獄の駄作「姫たちの戦国」が、「妹のヘル幕末」となって帰ってきました。「兄上、攘夷は嫌でござりまする」とか言うのかな。
ヒロインが無名なだけに、座持ちを良くする目的で、当時の有名人を山ほど無駄遣いする「八重の桜」作戦も敢行される気がします。茶の間に馴染みの薄い宮部鼎蔵が、吉田松陰のオブジェのごとく扱われている姿を見ても、志士や幕臣の大量生産、大量消費がこれからまかり通る予感がします。長州アベノミクスによる幕末人物バブルですか。
視聴をやめれば楽なのでしょうが、残念ながらそうもいきません。松陰らが「国防国防、国を守る」と連呼していますけど、その情熱の動機がわからない。脱藩という重罪を犯す理由も不明。外国による脅威の現実も全く視聴者に提出されていないのに、登場人物たちは異常に前のめりなのです。何かに似ていませんか?
そう、集団的自衛権です。「おじいさんやお父さんが乗ったアメリカの船が外国に攻撃されたら……」なる、あのワケがわかんない理屈と同じ胡散臭さを、「花燃ゆ」には感じてしまうのです。
吉田松陰が自衛権云々を演説して無垢な視聴者の洗脳を始める、今後の危険性まで懸念して、今後は監視することにしました。現会長の統治下にある公共放送への信用は、かくのごとし。
「大衆の記憶は歴史となり、個人の記憶は思い出になる」のが、情報化社会での歴史の作られ方なのだと思いますが、権力者は時に自分の勝手な記憶や思想を歴史に仕立てようとします。大変にキケンです。
今日は、「花燃ゆ」にも登場する大日本帝国初代内閣総理大臣・伊藤博文の自慢話を取り上げます。権力者のウソにだまされないためのメソッドとなれば幸いです。
1899年4月21日付の東京朝日新聞「伊侯青年時代の功を語る」から引用します。改行や句読点、仮名遣いなど、おじさんが現代風に改めています。
吾輩が聖恩に浴し、今日の地位を得ておるを世間ではとやかく言う者あれど、これ畢竟(注・結局)、青年時代より先輩諸氏の驥尾に付して(注・先輩を見習って行動すること)終始一貫、国家のためにいささか微力を尽くしたからである。かく申すと、いささか自慢するようであるが、今日我が国が諸外国と和親交易して、東洋の一文明国と称せらるるに至りたるは、吾輩と井上(馨)の力である。語を換えて言わば、我が国の和親交易の端緒を開きたるは吾輩と井上である。
回顧すれば、吾輩が19歳で、井上が22歳の時であった。天下の志士は皆、鎖国攘夷の説を唱えて、我が山口藩のごときは皆これに雷同し、すでに鎖国攘夷を実行せんとする危機一髪ともいう際に、吾輩と井上の2青年が外国から帰るや否や、こう藩挙げて攘夷説を実行せんとする火中に飛び込んで、百方駆馳(注・奔走すること)したる結果、とうとう鎖国攘夷の説を一変して、和親交易となったのである。
ちょうどこの時、井上は鎖国家に闇討ちせられて顔や体に刀傷を受けた。もとより吾輩も死を決していたが幸いに無事に済みました。
1920の青年でこのくらいの大業を背負って立ったと思うとエライものであろうがな。しかしてわが輩等が国家のために働きたるものは皆、松陰(注・記事では「松蔭」)先生の薫陶してくれたる結果である。長州人が維新の鴻業(注・大事業)を翼賛して大功ありしゆえんは松下村(まつしたむら、注・松下村塾)より発動したる、いちるの光明に温められ、松陰先生の刑後の首を受け取りに行きたる者の憤慨心が発同したる結果である。ゆえに、およそ男児にして異日天下に雄飛せんとする者は天下第一流の賢者を師としてこれと同一の人格たらんことを務めざるべからずとは、春畝先生(注・伊藤の号)の談話なり。(引用おしまい)
このヨタには伊藤の主張が二つあります。①現在の日本を構築したのは俺(with 井上)である。②俺(with イノウエ)は吉田松陰大先生に就いたから偉業を達成した。俺はその松下村塾出身である。
攘夷に傾く長州藩をいさめて、欧米諸国と対等の立場にしたのは俺だ、と主張していますが、ちょっと待ってほしい。
伊藤は1841年10月の生まれということになっています。19歳といえば、1860年あたり。この辺の伊藤は、開国派の長州藩士長井雅楽の暗殺計画にのめり込み、英国公使館を焼き打ちする以前の攘夷バリバリ鉄砲玉だったはず。
英国に流れて、彼我の文明の差にあわてて開国派に転じたのは22、23歳ごろでないとおかしい。帰国したところで下関戦争は止められず、長州藩は大敗北を喫したのですから、伊藤の談話は100%ウソです。井上との年齢差も、こんなもんだったか?
伊藤博文という、明治維新での役割不明の人物が、どうしてかくも出世できたのか、よくわからないのですが、多くの革命家が早逝した長州藩士の中で明治を生き残り、往時を知る先達が死んだのをいいことに反ばく不能な自慢話を垂れ流して、同時に吉田松陰のブランド化を進めた口舌の徒として、のし上がってきたような気がしてきました。
繰り返しになりますが、「花燃ゆ」には伊藤博文が登場します。もしも、ドラマで集団的自衛権を訴える奴が出現するとしたら、こいつがふさわしいのかなと思えますが、油断はできません。「エスパー文」が焚きつける可能性だってあります。
今のところ、心ある人たちにはとても共感できないストーリー展開とキャラクター構成がダダ流れになっているのが、「花燃ゆ」の救いなのかもしれません。