コピー禁止

2014/12/01

タレントとスポンサーの付き合い方

大塚ホールディングスの大塚明彦会長が亡くなりました。報道によれば「ボンカレー」を考案した人らしいですね。
ボンカレー、もう何十年も食べていませんが、こどものころはよくお世話になりました。この商品や「オロナミンC」のホーロー看板が、商店の壁に貼ってあるのが昭和に欠かせない風景でした。
知ってる人も少なくなっているでしょうが、ボンカレーの看板の女優さんは、松山容子という名前です。彼女のスポンサーとの付き合い方は非常にスマートでした。実に興味深いので紹介します。1968年2月25日付の朝日新聞「すがお・松山容子」から引用します。年号は昭和です。
(前略)アサヒグラフのカバーガールになったのが縁で、32年松竹京都入り。大曽根辰保監督の「侍ニッポン」で、山田五十鈴やなくなった森美樹と共演して幸運なスタートを切ったが、その後、作品に恵まれず、ちょっとかすんでいたのが、36年読売-日本テレビ系の男装のチャンバラ劇「琴姫七変化」で一躍スターに。
(中略)人当たりがいい。スタジオでのマナーもテレビ局のスタッフが口をきわめてほめる。だが、なっとくがいかないとどこまでもくいさがる。
「スポンサーから、私の出ている番組の前後にCMをいれるようにっていわれて、おことわりしたことがあるんです。別の番組ならともかく、いま見終わったばかりのドラマの出演者が出たら、ドラマのイメージはぶちこわし。スポンサーも損でしょ。はじめ、私がCMをいやがってるととられて、山本富士子さんでもCMに出ていらっしゃる時代に、なにを生意気な、とずいぶん悪くいわれました。でもよくお話したら、わかっていただけました」(引用おしまい)
昔も今も、タレントはイメージ商売です。しかし、それを守るために、自分に大金を払ってくれる広告主に、「出番の前後には出演CMを流さないで」と頼む信念のあるタレントがいまどきいるでしょうか? 了承するスポンサーがあるでしょうか?
のどかな田舎町を訪れると、現在も松山容子さんのボンカレーの看板を見かけることがあります。細面の美女のどこに、そんな女優魂、タレント根性が潜んでいたのか。エコノミックアニマルと海外からバカにされた経済効率最優先の日本企業に、そんな鷹揚さがあったのか。
芸能界に限らず、目先のお金が一番大事になっている日本にずっと住んでいると、一種の酔狂にしか思えないお話です。ジェットコースターのようにめまぐるしかった高度経済成長の下にあった時代の日本人の方が、今よりずっと余裕のある生き方をしていたんでしょうか?