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2014/11/22

なぜ映像劇は滅びるのか(2)

少年時代、「影同心」なるB級時代劇が大好きでした。クールな二枚目・山口崇さん、ヒゲ面の野獣・渡瀬恒彦さん、いつもなら殺される側にいる金子信雄(このブログでは故人に敬称をつけません)が主役。
マーロン・ブランドーの美声=田口計さん、高倉健同期の最恐の凶悪顔=今井健二さん、ザ・悪代官=川合伸旺ら、悪逆の限りを尽くすキラ星のごとき悪人どもを、毎週次々と片付ける、それこそ型にはまったワンパターン時代劇。でも、少年の心をとらえていました。
金子信雄が悪人を倒す時の武器がハマグリの殻。それで敵のコウ丸をはさみつぶすコーナーの下品さが、ガキにもウケたんですね。丹阿弥谷津子さんの品の良さも忘れられません。
前項からの続きです新潮新書「なぜ時代劇は滅びるのか」(春日太一著)を読んだ上で、時代劇ならびに日本の映像劇全体のあり方について考えています。
水戸黄門に代表されるお決まりのパターンは悪なのか。「てめえら人間じゃねえ」、「ひとつ、人の生き血をすすり」、「成敗!」などなどの常態化が悪いとは、一概に決めつけられないと思います。
画一化が駄作一路の原因なら、スペシウム光線で怪獣退治、ライダーキックで怪人爆発、月に代わってオシオキよ等々も全部クズだという話になってしまいます。ベタベタの「影同心」なんて、捨てようにも困る産廃ですよ。
刊中では、時代劇監督には芸事への基礎教養や時代劇製作の基本が求められる旨が述べられています。それらが近年の監督には欠けていると、著者は嘆いているのですが、時代劇アレルギーは最近に始まったことではないようです。
1953年1月15日付の朝日新聞「時代劇監督はいや」から引用します。
松竹シスター映画の演出者は、助監督生活10年組から選抜されているが、このほど京都撮影所で時代劇演出の希望者を10年組に呼びかけたところ、一人も希望者がないので、やむなく大船の川島雄三監督を起用、同監督は数日前京都へ出発した。
時代劇の演出をきらう若い監督候補の傾向について松竹では「時代劇の演出は、決められた約束が難しく、例えばキセルの持ち方大小の刀の置き方など、細かい法則をのみこむのが大変で、そうしたわずらわしさが、時代劇演出を敬遠する結果になるのではないだろうか。最近松竹から東映に移った佐々木康監督のようなベテランでさえ、勉強の仕直しを痛感しているといっているくらいだ」とのべている。(引用おしまい)
「シスター映画」とは、上映時間数十分の低予算物で、ヒットを狙う作品の添え物映画。とはいえ、助監督から監督に昇格するチャンスです。これを振るとは、にわかに理解できません。
1953年は「君の名は」、「東京物語」などがヒット。時代物も「花の生涯」など人物ドラマにシフトしていて、チャンバラは不人気だったのでしょうか。翌年公開の「七人の侍」まで、時代アクションは面倒なキマリに縛られた、割に合わないジャンルと認識されていたのかもしれません。
いつの世も、人間は苦労せずに果実を求めがちです。時代劇に限らず、元テレビプロデューサーの大山勝美が嘆いていたように、凋落した国産映像劇には目を覆うものが少なくありません。
NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」など、ひどいものです。本筋に関係なく、混血児(あえてこの言葉を使います)が差別される対象であるがごとき描写を、場当たり的に挿入して恥じない。番組の最後に、実在するハーフのこどもたちの写真が映し出されることがままあります。痛々しくて眼を背けます。
「なぜ時代劇は滅びるのか」は、ジャンルを問わず、我が国の映像劇すべてへの警鐘だと思って読んでしまいました。