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2014/09/26

村岡花子の人物像(2)

毎朝ドラマ寄席は、番組終了記念コント「アザミやキャベツも名前は大事」をお送りいたします。

小泉:ではこれで、NHKアーカイブスに入稿致します。
花子:よろしくお願いします。
小泉:それでこの作品の題名なんですが、「花子とアン」でしたね。
花子:ええ。「花子とアン」という題は、実際の中身になじみませんよね。そこでいくつか考えてみました。
門倉:拝見いたします。
小泉:「夢見る蓮子」「窓辺の蓮子」「窓辺に倚る蓮子」。でも花子という主人公の名前は、残した方がいいんじゃないでしょうか。 例えば「何もしない花子」とか「何とかなる花子」とか。
花子: 花子という名前が入ると、急にストーリーの幅が狭められてしまうような気がしますけど。
門倉:それで、村岡先生は「蓮子」になさりたいんですね。
花子:ええ。これは花子の物語ではなく、他人の物語であるのだと受け取ってほしいんです。
小泉: それじゃ「吉田鋼太郎無双」はどうです?
門倉:「時計じかけの茂木」は?
小泉:「粗にして嫌だが卑でもある」は?
門倉:「曲がり角の先にマッサン」は?
花子: それでしたらやっぱり「窓辺に倚る蓮子」がいいと思うんです。
小泉:でしたら「皇軍兵士、甲府を征く」というのは? ドラマ唯一最大の見せ場でしたし、某経営委員の覚えもめでたくなります。

前項からの続きです。村岡花子の本質を、この朝ドラがどれだけ表現できた(できなかった)のかを検証しています。「理屈は後回しにして働くことの好きだったオバサン」がここまでデフォルトの村岡像。引き続き1955年6月6日の朝日新聞「著者を描く 村岡花子」から引用します。
そのためであろうか、戦中、戦後を通じて放送協会、文部省、行政監察委員会、電通省郵政審議会、キリスト教文化協会などに関係している。それも役所と民間団体を半々ずつ兼ねているところが面白い。肩書はきらいではないらしい。が、政治家になるにはやはりどこか欠けており、その欠けた部分で文学者としての仕事をしているわけである。自分のエネルギーをむだなく使いこなしている点が強みだ。
彼女は大正15年に七つで世を去った長男の道雄さんを記念して「道雄文庫」をつくり、長女にそれを管理させている。この文庫は子供クラブを兼ねて、なかなか好評のようである。
とかく観念だけでかたまりやすい婦人運動家や、一事に凝ってしまって、他の領域に視野のおよばぬ名流女史の多いなかにあって、村岡オバサンの生き方はたしかに異彩を放っている。いい意味での啓蒙家の生き方だ。案外本格的な小説などもかける人かもしれぬ。書くことだけに専念していれば、フランスのコレット女史ぐらいにはなれたであろう。
キリスト教を基礎にした人生雑誌ともいうべき「ニューエイジ」の編集人になっているが、その6月号に、自分が16歳のときからアルバイトに家庭教師をした貧しい女学生であったことを語っている。婦人の経済力は婦人の独立のカギであると、体験で知ったが、その反面、狭い意味での独立の経済力だけが婦人の解放ではない、と考えていると語っている。この辺が彼女の本領であろう。(引用おしまい)
リアル村岡は、英語翻訳の達人でありながら、世話好きのおばさんですか。そんな人、劇中にいませんが。子供のころから怒るとこわいという未体験キャラが、つい最近になって追加されたのは知ってますけどね。
広義での女性の経済力獲得を主張したのが村岡の本領ならば、自分ちの経済状況と家計ぐらい作中で提示しましょう。何で生計を立てている家なんだか結局わかりませんでした。
「花子とアン」は宗教から逃げ、異文化と言語をネグり、震災・戦争とそれに伴う庶民の痛みや責任などすべてを意味不明な「時代の波」のせいにしました。結局、村岡花子の人生に向き合うこともなく、視聴者は見る理由が理解不能な、同姓同名の女性の一生に半年も付き合わされたわけです。
明日の最終話、村岡花子の物語にトドメが刺されます。ドラマがいかなる非業の最期を遂げるのか、ある意味楽しみです。