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2014/08/22

餓死の話をしよう(1)

20日の毎日新聞夕刊に与良正男専門編集委員のコラムが載っていました。「あるテレビの報道番組で私は『日中戦争や太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属は約230万人とされているが、その多くは餓死や病死だったんですよね』と語ったのだが、若い人だけでなく『本当ですか?』と驚く人が多かった」
与良さん、今さら新聞で言うことですか?そんなの知ってる日本人は、ずっと以前から少数派ですよ。ほとんどの兵隊がドンパチやった末に往生したと思ってる連中が大方です。
うちの親父は昭和一ケタ生まれですが、少国民教育に首まで浸かってた上に、自分の母親が米軍機の機銃掃射食らって九死に一生を得たこともあって、メリケンが大嫌い。ABCD包囲網がどうこう言いながら酒飲んじゃあ、「見よ落下傘〜♪」って歌ってました。欧米の植民地支配と戦ったらしい皇軍の汚点を知ろうともしなかったし、むろん息子に語るはずもない。我が子に国の恥を説いて聞かせる奇特な親はそうはいません。学校教育の方もご承知の通り。
でも、恥を知らない国民は、後戻りはできても前に進めないと、愚息の方は思うんです。これまで日本軍の人肉食住民虐殺を紹介してきましたが、今日は太平洋のちっぽけな環礁ウェーク島(Wake Island)に棄てられた守備隊の餓死のお話をします。
1954年、米国のビキニ環礁水爆実験による海洋汚染の調査船「俊鶻丸」がウェークに立ち寄った際、守備隊所属の日本兵が書いた日記の英訳資料を渡されました。筆者は「独立混成第13連隊第1大隊対戦車砲中隊の渡辺ミツマサ兵長」。1944年4月から1945年3月まで日記を書きつづり、餓死しました。6月16日の朝日新聞夕刊「一日本兵『餓死の日記』」から、日記を引用します。年号は昭和。仮名遣いは現代式に改めています。
(19・4・21)船はもう絶対にこの島へは来ない。全員失望している。野ネズミをあぶって食う。これで少しは元気になれるだろう。
(同7・3)補給船来るとのウワサ。空腹のため犯罪続出す。敵しょう戒機1機頭上旋回せるも投弾せず。
(同7・16)全員文字通り骨と皮。木の葉が食卓に現れる。今日空襲なし。
(同7・27)ウェーキへ来てちょうど1年。ああ、食い物が欲しい。将校は何でも手に入る。兵隊がいないところでは、やり方があまりに汚い。
(同7・31)応召兵多数が志願兵より食糧の配給が悪いため餓死す。敵しょう戒機1機。
(同8・28)食糧事件起こる。空腹にたえかね、死を覚悟で倉庫へ押し入った兵多数、二度と生きて帰れぬ営倉入りす。
(同1・22)イケダ二等兵、先月27日、肉のカンづめ16カン盗んだため営倉入り。命は16カンのカンづめと交換された。ヤツは自分の班でも成績がよかったが…ウェーキは恐ろしい島だ。
(同11・26)今日も応召兵1名死亡。釈放されたばかりだった。携帯食料4個をごまかしたため営倉入りしていた青木だ。カンづめや携帯食料と命を交換する兵たち。両親や兄妹がこれを聞いたらどう思うだろう。(引用おしまい)
応召兵とは、召集令状で集められた徴用兵。志願兵より少ない食糧しか渡されずにバタバタ死んでいきます。渡辺兵長の日記によると、将校と兵卒でも違いがあるようですね。おじさんの嫌いな、戦争が生む差別です。
空襲と飢えに悩まされる連隊の軍規乱れ、秩序を保つ手段は死と恐怖のみ。しかし、この年は兵士たちにとってはまだ地獄の一丁目だったようです。翌年、守備隊は奈落の底に突き落とされます。この項、続きます